カノン

 

「ハンパな自己否定続けてたら、自分を、否定し続けたまんまなんだぜ?」

 

否定の記憶の中から、最終的には、滲み出てくるような、どうしようもない全肯定が開かれた。

 

『カノン』を聴いた。

 

カノンの旋律は、全て、哀しみで構成されてた。

 

全ての哀しみが、天国へ、浄化されていったーーーーーーそんな、許されるための音楽だったのだ。

 

 

 

 

 

 

☆即興ストーリー 誰だって、他者

 何を、うまく、生きようとしているんだろう。クリスマスは、狭い。ぼくは、ひとりぼっち。ひとりぼっちなのは、自分のことが、嫌いだからだ。

 

 

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「どう? 大丈夫?」

 彼女が声をかけてくれる。彼女が、できるという経験は、生まれて初めて。それほどにまで、ぼくは、飢え渇いていたのだった。

 

「大丈夫じゃない」

「えっ? ごはんちゃんと食べたんじゃないの?」

「知らない」

「しっかりして」

「しっかりしない」

「もう! 何言ってんのよ!」

 こういう、絵に描いたような、完全に相手サイドに寄りかかり切っているコミュニケーションをできるようになったのも、ここ、最近になった気がしている。

 

「死ななきゃ、何でもいいよ、あなたは」

 

 彼女と付き合う前に、己の自殺願望を語って言ったとき、こう言われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼくは、助けてほしいと願っていた。助けを求めたことは何度もあって、実際、助けてくれようと周りは何度かしてくれて、それでも、その救いを差し伸べてくれた手の内容が、ぼくにとって、絶望的なくらいにこちらの腑に落ちない質のものだったから、それすら、感謝することもできずにここまできていた。自殺願望の原因は、腑に落ちないあらゆることを、己の身に、被り過ぎていたからに他ならない。分かる人にしか分からない、この感覚。この感覚そのものについて、「ワガママ」と評されてしまったとしたら、抵抗はするだろうが、ワガママであることを拭い取ることはできません。こう言ってみる。

 

「俺はこれまで、死ななければ、ならないような仕打ちを、沢山、身の周りの人たちに、してきてしまったんだよ・・・・・・・」

 

 こういうことを聞かされて、他者としては、どのように反応すればいいんだろう? こちらのセリフを聞いてくれる人の、身に余ることを言ってしまったら、言われてしまった人としては、どうしようもないでしょう。ぼくは、最近、自分の言動が、どのような影響を周りに与え得るかを、想像するようになっていた。想像するように、昔、ある人に、注意されていたからだった。思うに、ぼくの言動に対して「×」を付けて、もっと、他者のことを想像しながら話しなさい、なぜ、そういうことをしないんですか? 最低ですね、だから、あなたは皆に、嫌われているんですよ、みたいにぼくに伝えてきたその人間は、たぶん、ぼくのためを想ってそう言ったわけじゃないんでしょう・・・・・・・。ただただ、ぼくの言動を容認できることができない、器が人一倍小さい人間だったから、こういうことをぼくに言ったというだけであって・・・・・・・・・・

 ゆえに、ぼくは、反省する必要も、本来、なかったんじゃないですか?・・・・・・・・・・

 

 なんて、思うようになってはいたけれども、それでも、飾らない自分の言動に、自信を、持つことができなかったから、ぼくは、いつまで経っても、目の前の、ぼくを好きと言ってくれて、ぼくを、受け入れてくれる気のある彼女にすらも、自分を出して、話をすることが、今のところ、できないんです・・・・・・・・・・。

 

 彼女は、少し、黙っている。

 

 ああ、やってしまった・・・・・・結局のところ、全くの赤の他人であるおれの口から、こういう、 “良くない” ことを言われると、困ってしまうよね・・・・・・、と、ショックを受けていたところに、彼女が

 

「依存していいよ、私に」

 

 と言った。

 

 ド直球極まりない。

 

「依存していいんですかい?」

 

 少し、おちゃらけて、聞いてみる。もし、ぼくが本領を発揮して、お前に、完全に、身を預けてしまうように、依存してしまったら、おれは、お前の生活に全て侵入する勢いになってしまって、お前の基本的人権を守れない人間になってしまうよ。ぼくは、お前の、基本的人権を尊重したい。だから、そうできるように、ある程度、距離を置かないと。

 

「いいんだよ。私、そういうのもう、終わったから。他人のために生きてもいいと思っている」

 

 こちらにとっては、都合の良すぎる話ではないだろうか? たしかに、こちらとしては、こんなにも安心できて、願ってもない話なんて、この世に存在しないよ? 

 でも、そういうわけにはいかない。ぼくは、不躾な人間では、いたくないんだ。だって、お前を、損なってしまうじゃないか。一体になってしまったら、あなたは、不自由になってしまうじゃないか!

 でも、辛かった。『ぼくは、悪い人間なんだろうか・・・・・・?』と、自問自答し続ける生活に、心が参っていたんだ・・・・・・・・・・。

 

 ぼくは、彼女に、身を預けてみた。胸に、頭を、そして、額を、当ててみると、この世で最も安心を与えてくれて、柔らかい感触が・・・・・・・・・・こんなにも、幸せなひとときを、味わってもいいんでしょうか? 

「いいんですかい?」あくまで、おちゃらけて、訊いてみる。彼女は、ふふっと笑って、「いいんですよ」と返してくる。

 

「君は今、幼稚園児で、女の子だね」

『彼女の何もかもに甘えてみたい』なんて思っていたところ、頭上の彼女から、何だかスピリチュアルな言葉を投げかけられる。幼稚園児で、女の子・・・・・・青年の域に十分達している男性のぼくに、何をおっしゃるんでしょう。ぼくは、まるでネコが甘えるように、しばらく、頭を動かしながら彼女の体の感触を楽しんでいるところだった。たぶん、そうなのかも、しれないですね。暖かさが、こっちに、移ってきます・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寂しい。

 

 閉じた胸の内を、どうやって、開くんでしょうか? そんな風に考えていると、彼女が、(冗談抜きで)子守歌を歌い始めた。でも、優しい子守歌に、頭の中も、優しくなっていきます。私は、子守歌を自然に聴いています。私が、冷めてしまい始めたのは、いつからだったのでしょう? 私は、昔、友だちに裏切られて、両親が勝手に自分の価値観を押しつけてきて、そもそも私は、部活でも、学校でも、うまく、周りのペースに付いていけない、グズな人間で、私は、家でも、外でも、まるで、戦場にいて、でも、女の子だから、正面切って闘って解決する問題じゃなくって、だから、体のスイッチを一段切って、対人関係におけるテクニックを磨いてきて、大人にも、子どもにも、負けない技術を身につけて、どうにかこうにか、自立していこうと、頑張ってきましたが、それまでの間に、誰かを「あっ、傷つけてしまったなあ・・・・・・」と、自分で気づいていながら、でも、自分の保身のために生きているのだから、それが、第一優先であることが完全なる善だから(もっと人に本当の意味で優しくできる人間になりたいのに・・・・・・)、たとえ、一時的に誰かを軽い仲間外れにしてしまっても、でも、それより辛くて理不尽なことなんて、私も、重々、遭ってきましたし、それくらいで、泣きわめくんじゃないよ!!!!!!!!!! という感じで、生きて、きましたし、それゆえ、私に傷つけられてしまった人間が、ぼくに、乗り移っている。『私に傷つけられた人間』が乗り移っているのではなくって、ぼくが、過去の、『私』に傷つけられた人間だから。

 

 

 

 

 

 ・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・・・過去、『私』に傷つけられて、辛かったんだ。だから、ぼくも、『私』がぼくにやってきたことと、同じようなことを周りにし続けてきてしまったんだ。死にたい。死んでしまいたい。ぼくは、過去にぼくを傷つけてきた『私』に、耐えられなかった。ぼくは、今、『私』ではなく、目の前にいる「依存していいよ」の彼女の胸の感触を感じている。彼女の温かくてやわらかい胸の感触が、あまりにも有難くって・・・・・・・・・・前後不覚になって、号泣している。何が何だか分からない状態になって、涙で、彼女の服が濡れてしまうことだって、彼女に、甘えることにしていて、そうすることを、許してくれる包容感を、上から注がれている彼女の温かい眼差しから感知していて、私は、傷ついていて、私は、癒すことができずにいて、私は、人一倍、真面目な人間なんだと、自他共に認められていて、それが、沢山、仇になってきていて、本当は、誠実で、真っ正直に生きていたいにも関わらず、過去に受けた傷を、耐えることができなかったんです。傷ついたことを。傷つけられたことを。誰かが、助けてくれなかったことを。私が頑張らないと、駄目だって気づいたことを。誰だって、他人なんだって、学習してしまったことを。ぼくだって、そうだ。『私』である君に、そうだって教えられたんだよ。だから、何にも気にしないで、安住できるコミュニケーションを、忘れてきてしまったんだよ。

 

 安心できる場所を、自分の中にある閉じた空間以外に、感じることができないでいたんだよね? 

 

 同情。共感。

 

 でも、それは、必要な勉強だったと思っているんだよ。知らないうちに誰かを損なってしまうことだって、あるよね。知らないうちに誰かを損なってしまうことを、回避できるコミュニケーションが、この世に存在するかまでは保証することができませんけれども、でも、「依存していいよ」の彼女に、ぼくも、私も、目一杯、今は、体を、預けましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・・死にたいよお」

 

「よしよし、よく言えたね」

 

 

 

好きな小説、書きたい小説

 

 

自分にとって、面白い小説って、何なんだろうと何年も想いを巡らし続けている。


小説家を目指しているくせに、フィクションになかなか興味が持てない。ノンフィクション派かもしれない。作り話に熱くなれないのである。「だって、作り話でしょう?」と、冷めてしまう。

 

だから、たとえ、作り話だとしても、現実の情報や、材料から寄せ集めて、そこに、作家個人の感性を一匙加えた、ほとんどノンフィクションみたいなフィクションに、最も、熱くなることができる。

 

東野圭吾の社会派ミステリーとか、太宰治のほぼ自叙伝である『人間失格』とか、ファンタジーではあるけれども、リアリティーのある書き込みがなされている万城目学作品とか・・・。

 

あるいは、ノンフィクションなんだけれども、小説みたいな感じがするもの。作り話ではないから、ノンフィクションなんだけれども、作り話みたいな話。あるいは、小説みたいに、構成が工夫されている話。自叙伝は総じて好き。


沢木耕太郎『深夜特急』

高木徹『戦争広告代理店』
河合香織『帰りたくない』
代々木忠『マルチエイジ・レボリューション』
デイヴ=ペルザー『Itと呼ばれた子』

 

自己啓発や新書でも、小説みたいなものがある。


ナポレオン=ヒル『思考は現実化する』
坂口恭平『独立国家のつくりかた』

 

今、自分がいて、見ている現実も、


中国の古典哲学書『老子』『荘子』
や、
尹雄大(ユンウンデ)『FLOW 韓氏意拳の哲学』


のページをめくっていけばいくほど、
違う様相を醸し出していく。現実にいながら、現実から解放されていく、不思議な啓発を受けることができる。

 

フィクションの良さは、現実の材料から話を組み立てないといけないノンフィクションと違って、制約がなく、何をやっても自由なことだろう。


だから、その世界に没頭できれば良いのだし、それが楽しいはずなのだから、フィクションのページをめくった後は、あんまり余計なことを考えなければいいのに、ぼくは、


「この展開、いくら何でも不安要素がなさすぎ。幸せすぎないか?」とか、

「いやいや、こんなに光り輝く世界はあり得ないでしょう」みたいに思ってしまう。

 

(話は少し逸れるが、村上春樹作品もいくつか読んでみて、救われたし、良いなあと思うところも多かったし、感性を養う勉強をさせてもらったけれども、未だに、ある種の修行感覚が拭えない。感性を養うための修行をさせてもらっている感じ)

 

書いていて気づいたけれども、

ぼくは、現実に居ながら、現実のしがらみから解放されたいと、強く思っている。

フィクション界への一時避難だけでは生ぬるい。


だから、ぼくがやりたいことは、啓発であり、現実を変えるための革命なんだと思う。

 

常識や、モラルを変えたいわけではない。常識やモラルは大好きだ。出る杭にはなりたくない。


キングコング西野さんやホリエモンみたく、派手な言動で世の中を扇動し、啓発したいわけではない。


むしろ、人々に溶け込みながら、人々に何の抵抗も覚えさせず無意識下に潜り込み、潜在意識の流れに少しずつ電気を当てたい。その方が絶対に面白いし、ガッツが湧く。

 

 

☆即興ストーリー 学校でのいじめ

 

おれが生きている意味がわからない。

だから、死んじまった方がいいとわかっていても、なぜ、死なないかと言えば、こんな風にまで自分が追い込まれていることがおれのせいではなくって身の周りのこいつらのせいであるということに気づいているからである。

 

世間は同情しない。いや、同情はする。しかし、おれの周りに、同情してくれる人間など存在しない。おれがどのように扱われているかを知らない。何をやっても、うまくいかない。伝えられない。

 

「死ね」

 

唾棄される。身の周りの人間たちに唾棄される日常を送っているこんな人生望んでいたわけじゃない死んじまえ全員!!!!!!!!!!しかし、死んでしまえと願われているのはおれである。

クラスで、デスノートが回った。子どもの遊びだ、子どもの遊びだ、子どもの遊びだ、と言ってでも気が済んでしまえば苦悩しないそんなに高い自尊心を設定されていないからであるだからおれはずんずん落ち込むことになる落ち込まされるということ自体完全に理不尽なんだおれはあいつらにあいつらが無傷のままおれだけが、

『おれだけが!!!!!!!!!!』落ち込まされなくてはならないという状況に陥っている矛盾に今おれは晒されている!!!!!!!!!!

何故、クラス全員がおれの名前を黒いノートに書いているのかがわからない。おれは、あいつらに落ち込まされている。なのに、彼らは、彼女たちは、何の代償も払わずに、おれを更に落ち込ませている。あいつらは一生代償など払うつもりがないどころかおれに対する嘲りをますます増加させていく一方である!!!!!!!!!! おれは、理不尽な目に遭っている。『こんな状況なんて下らない。こんな奴らなんて下らない』と、一瞥することができれば、一体、どれだけ、楽になれうるんだろう????????????????

 

「お前らが死ねえええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!」 

 

 おれは当然の理屈を言ったまでだ。なぜならおれだけが苦痛をなめていることがあり得ないから不条理だからあいつら死んじまえばいいんだと朝晩一心に心から願い、そうして、それのどこがいけないというのだろう?何で、おれは、取り締まられなくてはならないんだろう。学校の廊下で、大声を出したからだろうか。そりゃあ、おれが、なぜ、大声を出さなくてはいけないのかの理由くらい、わかるだろう、普通に見ていれば、わかるだろう。わかるはずだよね!?でも、何で、ぼくの苦痛を大人どもは全員察してくれないの?汲み取ってくれないの?おれを助けてくれないの?おれを更にこんな目に遭わせてしまうの?ぼくがたっくさん大声を出したことでぼくのことを叱るの!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!??????????????????

 

何で、ぼくを投げ飛ばすの先生!?

何で、ぼくは、こんな苦痛を罰を受けなくてはいけないの!?

ぼくって、今まで、いい子にしてきてたじゃない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ぼくが投げ飛ばされる理由なんて、どこにもないんじゃないかなあ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!??????????????????????????????????????????????????????????

 

生きている意味がわからない生きている意味がわからない生きている意味がわからない生きている意味がわからない生きている意味がわからない何でおれはこういう環境に存在して息をしているんだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうして、早いところ、逃げることをしなかったんだろう。

どうして、こういう被害に遭う前に、自分の居場所をもっと広い範囲で模索する生き方に、シフトチェンジできなかったんだろう。

その後、ぼくは、皆勤賞をもらった。なぜだか、わからない。風邪を、引けなかった。風邪を引くことができないと、休みを両親に申請することすら、できなかった。そういうことをすることは、してはいけないことのように思っていた。なぜだか、わからない。

一体、どういう魔術が、ぼくの、身の周りに、巡回していたんだろう・・・・・・・・・・。学校を休むこと。それの、どこが、いけないんだろう。学校だなんて、生きていい場所ではない、正直そう思っている。今、やっと、思えている。諸々、理屈をこねてどうにか『どうして学校に行かなくてはならないんだろうか』みたいな哲学的問いに意義を出そうとしていた。でも、どうでもいい今。行かなけりゃあいい。その後の人生がどうとかどうだっていい。一番のクソ時間が、今、学校に行っている時間である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・愛している。

何も、気にしなくてもいいんだよ。

君は、こんなところで死んでいい存在ではない。

おれは、君に、何の束縛すら、要求しない。

どんな意見だって、聞かなくてもいい。

辞めちまえ。学校なんて。

学校=正当な地獄であると君は正直に思っていい。

行くべき場所ではない。

行くべき場所ではない。行くべき場所ではない。「行くべき場所である」という説教を垂れる人間の近くに行くべきではない、死にに行くもんである、君は、まだまだまだまだ、死んじゃあいけない。世界は、もっと、広いんだぜ!

 

 

 

 

 

 

 

どうやったら、生き延びられるかだなんて、わかんない。誰にもわからない。学校行けば生き延びられるんです的なこと言うやつにだって本当はわかっちゃいねえんだよ。お前はそんな奴らに潰されんな。そうして、社会にだって潰されんな。本当に生きるために大事なことだけを追求していけ。社会ではない。地球である。ここは、宇宙である。お前は、社会に属していると便宜上言われることだってあるけれども、結局のところ、大自然に飲み込まれている。

お前は、生き物である。

生き物が、社会の俗物などに、殺されてはいけない。

お前は、生きるべきである。

。。。。。。。、。、;、、:。、:、。・・、・。、、。、・・。、、、、

 

 

 

 

お前は、生きるべきである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おれの意見だって、聞くべきではない。

気弱なまま生き抜くためのテロリズム

 

 

 

 

 

そもそもブッダは、苦行を捨てた

 

 

 

 

 苦→救いは、非常に実感が得やすい。

 『苦の先にある、救いの光』を浴びることができる。

 救いの光を浴びた人は、成長をすることができた実感を覚える。

 

 人によっては、誰かに何かを教えようとするとき、昔自分の感じたものと、同じような実感を覚えてもらいたいと思う。

 

 いたずらに苦を積んだところで、上手くいかなければ苦の経験を消化し切れず、言動が擦り切れるばかりだ。

 その有り様を成長の証とするのは短絡的である。

 

 必要以上に他者を追い込むのは、ただの想像力の放棄でしかないのだろう。

 擦り切れてしまっているから、他者を想像する余裕すら消えている。そもそも、自分や他人を擦り切れさせる以外のコミュニケーションを知らない可能性もある。

 

 いや、他者を想像した上での行動かもしれない。

 『苦の先にある、救いの光』を浴びた経験を、他の人にも共有させてあげようとしたのかもしれない。

 他者の立場になって、他者のためを想って――――――苦を積むことを、押しつけたのかもしれない。

 

 他者を想像した上での行動が、毒になりうる。

 この世に存在する、数限りない善意の数々が、どれもこれも、毒になりうる。

 

 毒とは、何だろう。

 毒を、この世から消し去ることはできるだろうか。

 できないとして――――――せめて、、、、、、毒の濃度を下げうるものとして、考えられるものは何だろう。

 

 思想とは、毒かもしれない。

 

 思想が生まれる以前から、人間に在ったもの、それは、本能である。

 本能とは、すなわち、体である。

 

 

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 ぼくは、誰も傷つけたくなかった。

 素朴に、生きていきかった。

 少数でいいから好きな人たちと、好きなときに、好きなように好きなことを話し合って、笑って生きていきたかった。

 

 自分のスタンスを損なわれると、怒りを覚えて、復讐したくなる。

 では――――――ぼくのスタンスを突き通すことで、周りの異なるスタンスを損なうことになってしまった場合、どうすればいいのだろう。

 

 周りの異なるスタンスの誰かをこちらへ復讐させないように、細心を注意を払いたい。

 なるべく、不用意に、攻撃される危険を自ら招きたくない。

 しかし、我慢をせず、鬱憤を溜めずに、伸びやかに過ごすことができないだろうか。

 

 こういう良いことずくめのウルトラCを、完全に達成することはできないだろうか。

 

 

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 自分の弱さに寄り添ったまま、この世のあらゆる制圧から解放されたい。

 

 ぼくは、傷つきたくないし、傷つけたくもない。

 『誰も傷つけたくない』と、強く想っている。

 誰も傷つけずに、生きていきたかった・・・・・・・・・。

 

 「傷つけられても、傷つける側に回るくらいなら、自分を損なうものから離れよう。」

 「そして、守った余裕で、他のものを損なわない調和を目指そう。」

 それがいい、きっと。

 

 ぼくの書くことは、誰にも気づかれないよう細心の注意を払いつつ、社会に通じる理念を水面下で変えていくために、ぼくが勝手に行った、安全の保障されていない、ある種の実験の記録である。

 

 これからも、ぼくは、言うこととやれることの一致を目指して、試行錯誤を続けていく。

 

 良ければあなたも、自分の弱さを理解し、意識したまま生きていく方法をぼくに教えてください。

 

 

 

 

消えてくれない承認欲求のしくみ

「あの人間に認められたい」という承認欲求によって、生きづらくなってるとして、


生きづらさの原因が『承認欲求』だとわかったとして、

 

たとえば、認められたいがために行なっていると自覚している行動を、無理やり止めたとする。


そして、『よし、承認を求めるサイクルを断ち切ったぞ』みたいに思ったとする。

 

断ち切れていない。我慢している。


我慢していると、どこかに歪みが移ってしまう。

 

我慢しないのが一番良いのだが、我慢しなかったら、生きづらさの原因であり、止めたいと思っている『認められるための行動』を止められなくなっていく。

 

意志のみが右往左往する。
卑屈と傲慢の間を行き来することになる。

 

どうも、教えではない何かに治癒の鍵があるみたいである。

 

そして一番怖いのは……………
「よしっ、承認欲求を断ち切ったぞ」というスタンスを取ることで、自分の生きづらさの原因が承認欲求であると教えた人に対して、『承認を断ち切った! だから自分を認めてくれ』というメッセージを、無意識の内に発してしまう刹那である。

 

 

☆即興ストーリー いいえ、けっこうです。

夜の新宿は蒼い。もう新宿から出ていきたい。新宿は、ぼくのことを離さない。

 

新宿に先立って、ぼくは以前、二子玉川に行った。地名だなんてどうでもいい。ここで地名のことなんて、あなたたちには関係ない。とりあえず、少し、緑のある、長くて大きい川の、ほとりの、堤防の草原に、あのとき、存在していたのだった。新宿の夜の蒼さに縁のない、すてきで、幸せ、そんなとき。

 

「私はね、あなたのことを好かない」

 急に彼女が言ったわけである。

「何言ってるの急に?」

 休日の午後、平和な昼下がりだった。少し、草から出てくるホコリみたいなものに鼻腔が刺激されて、鼻水がお互い止まらなかった。それでも、やっぱり、仕事で疲れたあとの自然散策というものは、いくら、もう、気心の知れすぎて倦怠期みたいな二人でも、歩いていたら、心地よい。そう思っていたのは、ぼくだけだったのか?

 

「そういう風に自分の中に閉じこもってるから駄目なの」

 駄目、だなんて、言われた。そう言われて、ぼくはさらに閉じこもってしまったわけだが、そこをまたしても、彼女に突っ込まれた。

「けっこうね、不満が溜まってたの。嫌なんだよ、あんた」

 平和なひとときではあった、まだ。そういうことを言い合うのも、退屈さを感じて、そういうものがまた、実は、休息になっていたということにお互い気づいたのは、その、何年後になっていただろうな・・・・・・。少なくとも、ぼくはまだ、気づいていなかった。

 

「いくら何でもさ、急すぎないかなあ。だって、それまでおれとお前は、ハウスダストが屋外でも出てるとか言い合って、ポケットティッシュ分け合って、鼻水思いっきりかんでたんだよ。どこが嫌いなの。急すぎて、おれは、お前に対応できてないよ」

「そうやって分析的に語りやがって。ていうか、ハウスダストが屋外でも出てるとかアホ丸出しのこと言ってるやつは、そもそもお前じゃん。私はあんたがそういうこと言ってるのを聞いて、少し、恥ずかしかったから! それに、もう、丸ごとあなたに対して、嫌気が差したんだよ」

 もうちょっとその語調で彼女はまくし立ててきたのだが、もう、分割する。カットする。どう考えても、他のストレス要因が原因の、急にそういう気持ちになった感のある言葉だったし、彼女の情緒不安定感には、我ながら、二年も付き合っていて、もう、飽き飽きだった。こっちだってお前のそういうところに飽き飽きだよ、みたいに返していたら、川辺の堤防の原っぱで周りに子どもたちやその保護者である大人がわいわいボール遊びしたり、追いかけっこしたりしている、絵に描いたような休日の平和のひとときの中で、行なわれた別れ話は、頭上に広がる何も気にしていないような青空とのんびり我々を照らすお日様の光の下、周囲の家族団らん、子ども団らんの幸せに影響させることもなく、意外と平和的に進行された。間もなく、別れることとなった。やった、次の道へ進むことができる。ぼくは、けっこう、目の前の道が開けてしまった。一応まだ近くにいる彼女に未練がなかった。まあ、友だちに近い状態だったし、べつに、いいかな、なんて思っていた。

 

もちろん、彼女がどう思っていたなんて、知らない。そして、舞台は新宿へ移る

 

歌舞伎町。

歌舞伎町の夜空は蒼い。

歌舞伎町の夜空は蒼い。

歌舞伎町の夜空は蒼い。

蒼いだなんて言葉を使うことが、我ながら、まったく腑に落ちない。歌舞伎町の夜空を”蒼い”。蒼井優を想起させるような、コバルトブルーを想起させるような言葉で、歌舞伎町を表してしまって、合っているはずがないのである。しかし、そうしてしまっている。

道行く人々を、恐ろしい数のキャッチが、地獄へ陥れようとしている。歌舞伎町の夜空は蒼い。キャッチと、スカウトは、地獄からの使者であって、ぼくだって、その一人だ。

七年前、彼女と歩いた、川のほとりの子どもたちの歓声と保護者たちの微笑みで彩られた雰囲気と、真逆みたいな場所で、何を、道行く男や女性に声をかけまくっているんだろう。

ぼくは、やっぱり、自分に閉じこもっている。

道行く人に声をかけるとき、声をかける人のことを、感じていない。歌舞伎町の夜空に、あらゆる工夫をほどこして、綺麗な存在として見ようと画策しても、見ることができない。たまに、キャッチが成功する。ここは、退屈である。川のほとりで見ることに飽きてきた彼女と歩いているときに感じた退屈と、全く、違う。夜のネオンに、強く明るい人工の光に対比された漆黒の夜空に、高揚を覚えず、ぼくは、退屈である。時折、キャッチが、うまくいく。キャッチと、スカウトの仕事を兼業している。成績は、同僚と比べて悪くない。ノルマを、毎日、達成する。上司から、一日100人以上の女に声をかけろと言われる。忠実に、達成する。踏み入れた道を、後悔している。面倒なしがらみを、街から受けている。ほとほと、面倒な気持ちになっている。良さを感じられない。何も感じられない。怖さを感じないくらいに慣れているが、肌に染み入ることがない。思い入れがない。

なぜ、最初、この文化に惹かれてしまったのだろう。寂しさだろうか。彼女・・・・・・・・・・”彼女”という文字を書くことが、少し、ぼくの心において痛烈に響く。あの、川辺のほとりを。あの、ハウスダストを。あの、日常を、手放してしまったのは何なんだ? わからない。ぼくは、退屈している。こういうことを言っていれば、彼女が戻ってくれると思ったら、大間違いで、いや、彼女が戻ってきたとして、たぶん、あんまり、ヨリを戻そうとか、思わない気がする。やっぱり、彼女については、愛想が尽きていたに違いない、お互い。だから、ぼくは、新しい何かを探すしか方法がなく、よりによって、歌舞伎町を選んでしまったのだろうか? 思い切った選択である。あまりにも、自己言及はキリがなくて、どうにもならない。目の前に、とても素敵な女性が現れる。

 

 

 

 

 

 

知らない女性で、どう、言葉で表現すればいいのかわからない。彼女の魅力を、どう、書き継いでいけばいいだろう。見ず知らずの、少年のような雰囲気の、斜め下から斜め上から世界に対しているエネルギーばかり飛び交っているこの空間で、ただただ進行方向へ歩いているだけで、周りから浮いていて、気取ることなく、ただただ歩いていて・・・・・・・・・・。

周りの状況に、全く気を留める気が見られないその目つきに、ぼくの心は惹かれた。

たぶん、彼女の内心は、とても、”退屈”で、ぼくは、あの心中の”退屈”を、求めていて、彼女の内心に、全て、ぼくの中に入っていけるように、思えて、支離滅裂で、何をそんなに、女性の魅力を永遠と書き継ぐだなんて、恥ずかしい作業をしているのだろう。

なぜ、こういう雰囲気の女の人が、こんなところにいるんだろう。想像してみる。この歌舞伎町には、サブカルの聖地として有名なとあるライブハウスが、存在している。そこで、彼女の好きなサブカルのアーティストか何かが、催し物をして、それに、参加していたのだろうか。あのライブハウスで行われるイベントは、大抵、終わりの時間が、ちょうど、今のような夜中で、キャッチの嵐の吹き荒れている時間帯となっている。そういう危険な状況下において、その、全く素朴で、何の色気すら出しておらず、何にも参考にしてなさそうに思える歩き方で、彼女は、何のこだわりもなく、嵐をかわしていく。

「いいえ、けっこうです」

無駄な警戒もゼロで、断る方も、断られる方も、お互い、何の悔恨も起きないくらい、ただただ、断っている。

あのときの川べりを、思い出してしまう。

秋も近づき、若干、雑草が枯れはじめて、黄色く染まって、あきらめの様相を醸し出していく、あの、草の持つ、退屈さ。ぼくは、退屈ではなくなっている。

ずっと、疲れていたから、退屈になっていた。退屈になることで、疲れないようにしていた。退屈が消えて、ある種の頑張りに踏みだしていくことは、危険に身をさらしてしまうのは、なるべくならば、避けたいものだ。

だが、目の前の出会いが、退屈を強制的に追い出させようとしてしまう。

彼女を見つめる。

退屈なあの川のほとりを感じる。

ハウスダスト、日の光、和やかな団らん。

あの幸せを取り戻すために、ぼくは、退屈ではなくなってくる。彼女を見つめる。彼女に近づく。スカウトのときの早歩きで近づく。ぼくは、ぼくがどのような格好をしているのか忘れている。キャッチの恰好をしていることを忘れている。きっと彼女は、退屈しているぼくを退屈にさせてくれる。彼女との未来しか、想像していない。ぼくは、近づく。彼女がぼくの気配を感じる。彼女は何かをさけようとするかのように手を自分の体の横にかかげる。

 

 

 

 

 

☆即興ストーリー 荒野の心

 

 

不気味な朝の目覚め。

 

「今宵は月の小石を持っておいで」

 

昨晩、あの人は言った。

だから、ぼくは探した。

しかし、見当たらなかった。月の小石とは何だろう? アポロ11号が持って帰った的な、本当に、ものすごくレアなものだろうか? しかし、そんな大規模な小石を、ぼくが持って帰れるわけがない。

 

だから、どうにかして探さなきゃと思ったが、何の手がかりすらもなく、途方に暮れていた。もうすぐ、ぼくの知り合いは死んでしまうのに。

 

あの人は、月の小石さえあれば、ぼくの知り合いの命を救えるなどとうそぶいた。ぼくは、信じるぞ、なぜなら、それしか知り合いの命を救うアテがないからだ。それにしても、一切、手がかりがわからず、途方に暮れていた。

 

不気味な朝。

 

上を見上げると紫のような青空。

 

もうすぐ、地球は破滅してしまうのだろうか。

 

だからといって、ぼくらは死ぬわけにはいかない。なぜなら、・・・・・・・なぜなら・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

停止した。

 

もう、何にもできる気がしない。何をどうすればいいか全くわからないし、それにしても、あの人とのぼくとの会話は、非科学的すぎて、信じられるはずもなく、どうしようもなく、君を助けたいのに!!!!!!!!!

 

君が好きなんだ!!!!!!!!!

こんな言葉を使うのもどうかと思うが、愛してるんだ!!!!!!!!! 陳腐だ!!!!!!!! 陳腐な感情だ!!!!!!!! 叫びつづけるのすら陳腐で恥ずかしくなるしもうどうでもいいと思ってしまいそうになる辛い嫌いおれが嫌い。

月の小石だけは見つけられないと駄目だ。なぜなら、君が好きだからだ。だからといってどう探せばいいかわからない、だけど闇雲に探す他方法がないじゃないか!!!!!!!!!それしか方法がないのだろうか・・・・?

 

よ~く、・・・・・・・・・よ~く・・・・・・・・・・・・・・・考えてみよう。

 

ある日のことだ、ぼくは君のためにラブレターなんていうクソ恥ずかしい時代の産物みたいなものをこしらえた。まあ、とりあえず、無印良品の便せんと封筒を用いて、シンプルかつ丁寧な文字で埋めた、想いはシンプルかつ丁寧で埋めることは叶わなかった。いつものパターンだと思った、どうせ、失恋する、ぼくの好きな君は、ぼくの手元へ、置くことができない。

 

不気味な、朝だった。

だから、ぼくは君に渡そうとした。ラブレター(笑)をものすごい勢いで、引かれてしまうくらいの勇気でもって、渡そうとした。引かれてしまうことすらいつものことで、もう、どうしようもなかったし、こんな自分はさっさと死ねばいいと思っていた。だけど想いを伝えることをどうしても我慢することができないんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

「今宵は月の小石を持っておいで」

 

今宵は月の小石を持っておいで? 月の小石って何だろう。アポロ11号が持って帰るような非現実的なものではないとして・・・・・・・・・・・・というか、もしそういう手段しかないのなら、そもそもが無理な話で、っていうかもしそんな金があったら君をアメリカの最先端医療技術に触れられるくらいの何千万円を余裕で確保することができるだろう。だからぼくは、他の手段を考えてみる必要があるのだ。というか、アポロ11号系列の手段はないものとして考えるべきなのかもしれない。

 

何とな~く、無印良品が頭に引っかかった。

 

君に無印良品の良さを教えてもらったんだ。それは、本当に何気ない会話においてだった。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。無印良品は良い、と。洗脳だった。洗脳でしかなかった。まるでロボットのように、君はそういうことをくり返した。そんな君の侵された感じが、何となく、好印象を持てたというよりか面白かった君に好印象を持ったなぜなら君はかわいかったから君の無邪気な笑顔が本当に忘れられなくって!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

非常に無印良品の中のレパートリーとしてこの世にあるあの小石が気になった。

 

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www.muji.net

 

 

全、無印良品の商品の中で最も『月の小石』っぽい、もちろんこの素焼きストーンが月なんかで採取されたものではないなんてことはこの文章を読んでいるあなたよりも100

億光年も早く素早く瞬時に気づいていたよでもおれにはこの手法しかないんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

とにかくぼくはこの商品に手がかりがあると思ったなぜならある物事へ繋がったからだ。

 

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www.amazon.co.jp

 

これも君が教えてくれたんだ。アーティスト・七尾旅人が一人で作った3枚組のアルバム『911FANTASIA』アメリカの月面着陸から、同時多発テロに遭うところまで、アメリカの新帝国主義に堂々疑問符を投げかけた大作、というようなあらすじがどこかに書かれていたような気がする。

 

このアルバムは、本当に良かった。手に汗握った。感動した。君のセンスは素晴らしいと思って、こんな女の子に恋をした自分が誇らしかった。しかし、なぜ、このアルバムと素焼きストーンが繋がったんだろう?・・・・・・・・・・・・・・・・・そう言えば、あの曲だ、ぼくはiPhoneにイヤホンを差し込み、耳に突っ込んで二曲目の『荒野』を再生した。

 

『荒野』というのは、アポロ11号が月面へ着陸したことと、それによって影響された全世界の人たちのことを描いた10分の曲であった。 

 

なぜ荒野かというと、アポロ11号が月面へ着陸し、船員たちが見た景色が『荒野』であるから、ということ、。

 

『That`s one small step for a man,one giant leap for mankind.』

一人の男にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ

 

「荒野・・・・・・・・・月の・・・・・・・・・荒野・・・・・・・・・・ニールアームストロングは台詞を忘れている。それで・・・・・・・・・おーろ、おーろ、してーる」

 

曲は進む。

 

「僕は、たずねる。僕は彼らにこうたずねる。どうへゆくつもりだい? こんな居心地の良い場所を離れて、どこへ行くつもりだい?こんな居心地のいい場所(地球)を離、れ、て」

 

彼ら(アメリカ)はこう答える。

 

『荒野』

 

荒野・・・・・・・・・・・・・・・・・君の、荒野。真新しい、荒野。夢にまで見た、荒野。

 

素焼きストーン。”素”の、ストーン。汚されていない、ストーン。真新しい、ストーン。

何て恥ずかしい類推だろう。こんなの、デタラメでしかないじゃないか。でも、他に君を救う手立てなんてあるか? これしかないだろう。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・これで良いはずがない!!!!!!!!!!!!!!!!!限界なのか?・・・・・・・・・・・・

 

・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・

 

思えば、君との未来も、荒野なのかもしれない。

少なくとも、ぼくにとっては、荒野だった。

真新しい荒野、夢にまで見た荒野。いつも輝いている、荒野。見通しの利かなく、未知で、ドキドキする荒野。アポロ11号というのは、ぼくのラブレターなのか。君という名の月面着陸を成し遂げるのは、アポロ11号なのか。無事、打ち上げて、そして君の荒野に足を踏み入れる。そのとき、ぼくは何を考えるだろう。荒野・・・・・・・・・・月の・・・・・・・・・荒野・・・・・・・・・真新しい・・・・・・・・・荒野・・・・・・・・・夢にまで見た・・・・・・・・・荒野

 

 

 

君が好きだ。

 

 

 

ラブレターを届けよう、と思った。

ラブレターを届けないことに、月面へ着陸する方法はないじゃないか!

 

そもそもこのぼくが、現物の月の小石を届けられるわけがないじゃないか! それくらい、あの人だって承知の上だろう。あの人は、やたら文学的表現が好きだったし、夏目漱石の「月が綺麗ですね」みたいなことが頭によぎった結果、わざわざそういう変な表現を使ったんだろう。

 

つまり、想いを伝えろ、ということだったんだ。

 

「今宵は、月の小石を持っておいで」

 

おれが、試されていたのは、君の病気を治すことではない。君の病気の、そばにいてあげることだったんだ。君のことを一心に願っていた。だから、こういう風に悩むハメになった。しかし、悩んでいただけだったんだろう。具体的な行動は何一つ、実行できていなかった。つーか何だ? 月の小石なんていう表現の意味が、まだ、これっぽっちもよくわからない。しかし、それであるが故に、ぼくは、君へと渡したいものを渡すことしか今君に対して君のために(君のために?)できることはないんじゃないか? 病室で、孤独な君に。孤独かどうかはわからないけれど、とりあえず、君のことを強く想っている人間が、ぼく以外にもいるかもしれないけれど、また一人、ここにいる、ということだけはわかってもらえたなら。ついでに素焼きストーンも持っていこうかしら。君の好きな無印良品の、エッセンシャルオイル・スウィートオレンジも添えて。

 

家を出た。

不気味な朝の目覚め何て言ったのは、何でだったんだろう。ごくふつうの青空が広がっているだけだ。

 

 

 

 

 

 

☆即興ストーリー 現代にはびこる合理的な価値観より合理的な『ありのままの状態』が、ぼくのような狂人によってオーガナイズされることによって生まれる『大衆が抱く危機感』。あるいはそれに対してぼくが抱くジレンマ

 

今までの苦労が台無しだったと言っても過言じゃない。

 

なぜなら、この世の中の狂気と共に、ぼくの中の狂気も、狂気なものだったからだ。狂ってたのだ。

 

だから・・・死んだほうがいいんじゃないか? と、日頃80回くらいは己に問いながら、それでも、生きていかなくてはならなかった。

 

狂ってる。

 

何もかもが狂ってる。

 

世の中に存在する、ありとあらゆる言葉という言葉が、最上級に狂ってる。

 

ぼくの尊敬する人は、狂った言葉を使わない。しかし、そんな彼らも、常人から見れば狂ってる、または、(・・・よく、わからない・・・)という感想を抱くのだがまあそんなもんだろう。

 

この世に・・・望みが生まれない。

 

断絶。

 

自分の中での、この世への、痛切かつ救いのない断絶。

 

この世に・・・望みがない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・ブッダは言った。みんな、平等だと。・・・・・そんなことを言ったのか? おれの言葉が狂気を帯びたものになっているかもしれない。しかし、ブッダを信用している。ブッダだけは信用している。極楽浄土なんていう存在はもう一切信用していない。しかし、ブッダだけは信用している。

 

ブッダは、個人だからだ。

 

ブッダは、ちゃんと、君やぼくよりも、個人だからだ、きっと。ぼくは、誰にも支配されたくなくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて個人になりたくて個人になりたくて、個人になりたくて、個人になりたくて(手が疲れた)。

 

だから、ブッダを信用している。

 

ブッダを信用している。

 

ブッダを信用している。

 

ブッダを信用している。

 

あらゆるフィクションから解き放たれた真実のありのままを、真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままを真実のありのままをそれはぼくたちにとって突拍子のない何かじゃないごくふつうに昔からあったものだなんというかぼくらを洗脳していく何かじゃない洗脳という概念自体人間が作ったものだから人間というものがありとあらゆる意味のわからない狂気の狂った考えを生み際限なく試行錯誤遠回りの結果こんな気味の悪い状態になってそれに必要なのは浄化みたいな輝かしい考えでも何でもなくただありのままを見つめるというだけに過ぎないような気がするのだけれどあなたはどう思いますか?ぼくがこのような狂った文章を書いているのはぼくが狂っている証であって間違ってもブッダが狂っているという意味ではないからブッダだけは信じてほしい信じなくてもいいけどぼくの所業によってブッダもろとも「気持ち悪い」と思うようなことはどうしても避けてほしいお願いですこんな狂った文章を書いてしまってすい、ませn

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言いたいことだけは、わかってほしい。

 

君を傷つけることじゃないんだよ。

 

君に危害を加えるようなことじゃないんだよ。そんなことをするつもりはないんだよ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ごめんなさい

 

気味悪がらせてごめんなさい

 

気味が悪いことを言っているのはとてもよくわかるんだ。

 

だけど、こういう言葉自体が君にぼくに対する慰め等の感情をおびき寄せ、そのためにぼくと君との間に病的な共依存関係が成立したらどうしよう?

 

そんな、なんつーか、まだ救いようのあるレスポンスをいただけるならこれ幸いだろうが、大抵は、気味悪がられるだろうなあ。意味わかんねえだろうなあ。

 

まあ、意味わかんないくらいがいいのだろうか。

 

一応、ふつうに会話はできるんだ。日常において。しかし、日常を司る、メディアが生む、ありとあらゆる価値観のことを、どうも手放しに信じられないだけであって(概念なんて一切が信じられない)、

 

信じられるのは、体だけ。

「病んでる」って何だろう?

「病んでる」ってなんだろう。


本来自然界に存在しなかった『概念』を、自他を判断するときの定規として使いつつ生きている時点で、生き物として病んでいるのかもしれない。

 

 

社会システムの中で生きている人は『人間』で、
社会システムも含めた自然界で生きている人は『生き物』なのだろう。

 

社会システムに置いて行かれないように心の安定を犠牲にすることは、自分の中の、システムに相容れない部分を否定することにもつながる。

 

何だかまとまらなくなったけど、下は、ホームレス研究家や新政府内閣総理大臣を経由して、今は小説の執筆に力を注ぐ『建てない建築家』、坂口恭平氏のツイート。

 

こういう訳がわからないけれどパワフルな(かつ、本質に迫る)活動をしている人がいるとわかるだけで、定規を当てられる辛さから少し解放される気がする。

 

 

 

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