枕草子

 

 

枕草子は、源氏物語に比べて、好き嫌いが分かれる印象がある。

基本、多くの人は、本文(翻訳含む)を全て読み通してはいないだろう。

 


僕も、どちらも読み通していないし、というか殆ど読んでいない。

しかし、少しくらいは摘(つま)んで読んでいるので、全く、印象を知らないわけではない。

 


枕草子は、『春はあけぼの〜〜』に代表される、著者・清少納言の、個人的な趣味嗜好(好き嫌い)を羅列して述べた章と、彼女の日常ーーー主に、仕えている10歳ほど歳下の中宮・定子と、周辺の女房や帝、宮仕えの男たちとの、悲喜交々(こもごも)の、ユーモアあふれる掛け合いーーーを、小話(こばなし)風にしつらえた章とが、出たり入ったり、繰り返される。

 

 

趣味嗜好を、羅列する章の方が好きだ。

 

小話の章は、あまり、頭には入らない。

理解することの難しい、人情の機微ーーーというか、著者たる彼女自身の、知性の高さを遠回しに匂わせる、用意周到にしつらえられた話ーーーの込められた文章で、時代背景の齟齬(そご)もあり、読み流してしまう。

 

 

教養深く、身近な時相を斜め上(あるいは斜め下)から切り刻むことで何かを笑い物にすることが得意で、権力と、高い身分と、華やかなものが好きで、大変、プライドが高い彼女。

 

 

こちらの教養不足で、作中における、彼女の、どの発言が自慢で、どれがそうでないのかが、よく、判らない。

 

 

ただ、彼女の、個人的な好き嫌いを羅列する際、そこに、透徹された、魂の求める救いが仄(ほの)見える気がするのはどうしてだろう。

 

 

彼女は、敵が、判りやすく多そうだ。

見栄と、プライドの懸けた、駆け引き。

周囲との、軋轢(あつれき)。

 

 

それでも、宮廷勤めの合間に、「春は、空が、次第に白くなっていく夜明けが良い」と、書き連ねていった。

 


平安時代の空は、現代の少々くすんだ空とも、原理的には大差なかったであろうか。

 


あなたは、高く昇った太陽を見上げて、何を、想っただろう。

 


その、雲と雲の間に、あなたは、一体、何を、求め続けただろう。

 


あなたは、どのような美しさを観ることが、必要だっただろう。

 


日本人の殆(ほとん)どは、学校の授業で、あなたの、個人的な好き嫌いを羅列した文を、読むこととなる。

 


僕たちは、スマートフォンで写真を撮りーーーと、言ったところで、何を言っているのかあなたには判らないだろうけどもーーー個人的な好き嫌いの景色を、そのまま、高精細のデジタル写真にて、収めることが出来る。

 

それこそ、春の夜明けに山際の白くなっていく様を、写真に、収めることが出来る。

 


あなたは、墨汁を浸らせた筆先で、当時、貴重だった高価な紙に、あなたの感性から迸(ほとばし)った知性で、文字を、書きつづる。

 

あなたは、救いを他者へと表明し、共鳴することを志した。

 


今は、それぞれの『春、夏、秋、冬』の良さを、周囲の人間との悲喜交々(こもごも)を、短い文章や、長い文章を通して、時に、何千人、何万人へと、見られる態勢が、インターネットにて整っている。

 

それでも、過去、あなたが求めた救いの表明を、僕のように、未だに、楽しみにして読んでいる人は、多く居る。

 

 

あなたは、未だに、多くの、根強いファンに囲まれ、あなたの、掬い上げた世界の喜ばしさを見る眼差しを、同じように救いに感じ、いつしか、同じような求める眼差しで、美しいものを、見たいと思う人々を、養っている。

 

 

僕たちは、時を越えて、結託し続けている。

 

 

あなたは、その、中心において、未だに、闘い続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ECHOESを聴きながら。

 

自分を保存するように、生きることができるだろうか。

 

決して、こちらや、こちらと似たような人たちが、保存されて、生きているような世の中ではない。

たとえ、自分ではなく、他者であろうと、自分と似た何かを否定されていたり、嘲笑われているような状況は、どうしようもなく、気力が消耗されていく。

 

人間、強い時ばかりではない。

誰かを、蹴落とすことで、己の安全を感知することができる。

 

そのような世の中で、同じようなことをしていることがないわけではない自分をも感知をしており、"たまに" ではあるけども、どうして、この先も生きていかなければならないのかが、訳が分からなくなってしまったりもする。

 

この悔しさは、一生、昇華をすることが叶わなかったのだろうか。

どうして、生まれ落ちてしまったのだろうか。

 

どうして、あの時、誰も、助けてくれなかったのだろうか。

 

様々なことを考えながら、体を休めていくしか方法がないのだろうか。

 

他人を殺すことができずに、自分を殺すことをもしないとして、さあ、他者と助け合いで生かされていくのだと考えたりもする。

 

気を遣って、気を遣われる。

 

ただし、どうしようもなく、疲れてしまうことだって、ある。

 

吐き出すしか、方法はないのだけれど、今回のこの感情のドツボは、どれくらいで去ってくれるんだろうか。

 

何だかんだ言いつつ、少しずつ、身体が動いてくれてはいる。

 

今晩はECHOESを聴こうと思った。

 

ECHOESでないと昇華させることのできないような、もしかすると、あまり理解をされることのないような、苦しみがある。

 

それをずっと忘れないで、否定をしないで生きている自分には、少なくとも誇りを持ってはいるところである。

 

………何でこんな風に毎回毎回、己の自我の核の部分まで抵触するほどに切なくなって、そうして、そういったそれまでの切なさとは異なるライフスタイルを得ることのできるような方向へと、舵を取ることのできるような、深刻な気づきを得たりしないとならんのだろう………。

 

他のライフスタイルは無いのだろうか…。
 
 

P.S.

辻仁成さんの『ピアニシモ』を初めて読んだ、高校2年生の夏休みから、俺の反抗期は幕を開けた・・・。

こんなにも、自分自身のことを言い当ててくれたような、深い心象風景を描いて下さった作品に、当時、初めて出会うこととなりました。

 

ピアニシモの内容を抜粋するととても長文となってしまいそうでもあるので、ECHOESの『ALONE』の歌詞の一部を以下に・・・。

 

最近 涙を流したことがない

きっと元栓を きつく締めすぎだね

蛇口を開いて 泣きたくなる時もあるけど

その蛇口さえ 錆びてしまって動いちゃくれない

 

誰か俺の名前を覚えているかい

あまり目立つことのない小さな俺のこと

 

厚い電話帳で君を探した

昔 一度だけ 話したこと覚えているかい

 

今度電話するって 約束したはずさ

いつかきっとなんて ごまかさないでほしい

ECHOES ALONE 歌詞 - 歌ネット

 

 

こんな風に、解消をされることはないのかもしれないような過去の傷を、打ち明けるようなことを、もっと諦めずにやっていきたいなあと思うところは、ある・・・。

 

たとえ、どうしようもないことであっても・・・。

 

 

個人的な今後の進んでいく方針的な事について。

 

・小説は完成する。早くて年内には。まあ、焦らない。締め切りなんてないのだから
・チベット大学は、二年間留学だとして、生活費も諸々込みで300万円あれば過ごせそう
・チベット語は決して難しくはなさそう。文字も綺麗で美しい。ぜひとも、習得させていただきたいところ
・300万円のアテは今は無し

 

・祖母の預言では僕は2022年にチベット大学へ留学してしまっているらしい(諸説あり)
・日本語のチベット語教材が少ないのと、チベット語の最もポピュラーな辞書たる、蔵漢大辞典を紐解くためにも結局は英語も中国語も習得が必要みたいだ。両方習得しよう
・全て実現させる前提で生活の狙いを定めよう

 

・300万円をどうする。小説(原稿用紙300枚ほど)の質は良い。読者が一人でに増えるレベル。ただ、ベストセラーは狙えそうにない。原稿料は100万円位貰えたら良いな…
・原稿料が入ったらアルバイトを辞めて、背水の陣を引こう
・原稿料が尽きるまで、一人でできるビジネス[アフィリエイト]をやろう

 

・PC1台で完結する、生身の人間と一切接することなくできる[アフィリエイト]。引きこもりのままでも、定住をせず国内や海外を気の赴くまま飛び回りながらでもできる稀有なビジネス。商品ページのリンクや広告のバナーを貼った、何かしらのサイトを運営し人を集めることで、収益を生む仕組みらしい。

 

・元々、ネットで収益を発生させる仕組みを覚えれば、執筆業でも、〆切なしで誰にも文句も言われずに納得のいくまで原稿を練って、Webにて世界へと公開するという、出版社等との軋轢要らずでお金を得て困窮をしない暮らしはできそうだなあとは考えてはいた。

 

・あと、一度、納得のいくまで「資本主義のシステム」というものの、その、運営されているルールの隅々までを、自分の体に徹底的に浸透させて、いつでも、自由に、楽をしてもしなくともどちらでも良いけども、自分の身一つでお金を得られて言わば "お金から解放される" 状態へと至りたいと考えてはいた

 

・あと、ヘタな小説より情報サイトの方が人を救い得るなあとも思う。あくまで小説もアフィリエイトも手段なのだよ。
・ここ、何年もの経験を経て、小説というもののシステムやら、人間関係における、とにもかくにも、楽しい過ごし方みたいなものは、肌にわかってきた。これはとても大きい。

 

・大金持ちになりたいとはまた違う。社会的な成功を得たいというのもまた違う気はする。ただ、目標を叶える為、物事を円滑にさせたりするという意味で、"ステータス"は色々あって便利で生きやすくなり得るだろうなあと思う。

 

・自分の身丈に合った、身の回りの何人かを近接的に、遠くの沢山の同志を遠隔的に、幸福にできるような、理性的で、穏やかで慎ましく、目の前の人としっかりと向き合える余白があり、大切な相手と共に支え合える、小さな暮らしを理想に…
・妄想のクオリティを上げ続けると、理想はいずれ、現実となる

 

 

 

 

応援する人のみで良いです。

 

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一日中家にいて、余白の時間を使って気のついたときに部屋を掃除して、文章を書いて、本を読んで、ご飯を作ることのできている今、理想の生活を過ごせています。

 

本棚にだんだん啓発系のビジネス書が増えていきます。


そういうものから、距離を置いていた時期があったのですが、それは、啓発系のビジネス書の多くが読者に対してもたらす、「内実なく、何かを知ったような気になる」ことの、恐ろしい食い違いから、離れたいと思ったからです。


………今だと、単純に、複雑にもつれた内面をより良い姿勢へと正すという、本来の目的を、これらの本が、叶えてくれるような気もするのです。

 

今年は経済的に結果を出すため、『周りを追い立てず、自分自身も追い立てられない効率』を追求しようと思っております。

 

*****

 

もう、これからは、こちらを応援してくれて、こちらも心から応援できるような人たちとしか、日常的には付き合いたくないと思っております。


そうではない人たちと主に付き合おうとして、その人たちが自信を得るために、自分を浪費されるには、あまりにも、"これから"は短すぎることに気づいたのです。

 

こちらを、深く、傷つけたことがある人々は、今頃、どのような地獄を舐めているのだろうかと、よく思います。

 

******

 

辛くなることから、離れていきたいと思っております。

 

ままならない自分自身

何でこういう立ち位置で産まれてきてしまったのだろうかと、切実に天へと訴えたかったことは多かったけれど。。。
僕に対して、「皆、大変なんだよ」と、言いたい気持ちはとても分かるのだけれども、それでもやはり、僕だって辛かったからなあ。。。

 

とりあえず、こんな人生、死んだも同然って思えてるから、(基本的にはものすごくビビりだけれども)、時には思い切ったことができるし、そうして、死ぬまでは、どうにか、自分の意志で、どんなことだってできるんだなあと思う。

 

ままならない自分自身への対応。

 

たとえば、仕事のできない自分自身。
たとえば、恋愛のままならない自分自身。

 

意欲はあるし、周りから延々と「真面目だね」というように言われてきたこれまでだったので、たぶん、僕は、(自分で言うなよと必ずあなたからは思われるだろうけれども)間違いなく真面目だったのだろう。

 

でも、社会から要請されている様々なことに対して、自分が、あまりうまく接続しておらず、何ともまあ、しんどい想いをしてきている。

 

どうやら僕は、何をやっても良くも悪くも独自となってしまうようで、"とりあえず" における、社会からの要請に(応えたい想いはあるのだけれども………結果的には)応えられない………………ということが多くて、泣いてしまいたい。でも、そういう自分に対して、周りは、特段、放っておいたりすることも多かったりするらしい。

 

日々………何をすれば良いのだろう………と、考えたりする。

 

何かしたいのだけれども、何ができるということでも、なかったりするのである。

 

日々………………皆は、何を考えているのだろう…………………………。

 

ずっと書き続けてきた小説

2016年9月から、がっぷり四つで取り組み続けてきた小説が、ようやく、物語の始まりから、結末までの筋が一本で通った。

 

つまり、やっと、完成の目処が立ってきた。

 

ここまで長かった………何度、鬱に陥ったことだろう。
小説を、書くことを正直ずっと肯定することができなかったし、しかし、とはいえ、小説を書くことに、人生を捧げていたことは確かだった。

 

半端なモノは絶対に作らないぞと、言葉のチョイスの一つ一つを『これで本当に良いのだろうか』と疑い続け、筆が乗って楽しくなりながらたくさん文字を書き連ねた翌日、原稿を読み返してみると、そのほとんどをスクリーニング (除去) せざるを得なかったことを何度も何度も繰り返し続けた日々だった。

 

小説の内容は、二転三転していった。
何度も、『これ以上、思い浮かぶことができない』という、確かな壁へと行く手を阻まれて、頭を抱えて、うめき声を上げざるを得なかった。

 

しかし、鬱に夜更けを絡み取られ、布団でただただ、何も考えられず天井を見ることしかできずとも、その翌日は、朝日を浴びつつ、少し回復したような意識で、ふと、行く手を阻んでいた壁からの、それまで見たことがなかったところにあった抜け道の存在に、気づくことがよくあった。

 

鬱は、しっかりと苦労が報われるための、洗礼であり、通過儀礼のようなものだったのだろう。

 

それにしても、無茶をしてきた。
そもそも、このような出版不況の中で、ただでさえスマホの台頭もあって長い文章を読むことが、世の人々の習慣から離れてきているとそこかしこで言われているのに、わざわざ、小説家なんていう、もはやニッチでレアなギャンブルの職業に就こうとしていたのだった。学歴や、資格、就業経験などの後ろ盾すらも、どこにもない。
書き始めた当初、文筆における実力を揺るがないものであると他の人から肯定された経験など、殆どなかった。

 

コミュニケーション不全であり、一人でもしものためのお金を稼ぐ能力などどこにもない、アルバイトでひいひい言っていた、どこからどう見ても庇護されるべき社会的弱者だったと思う。

 

今もなお、弱い生き物だと、自分のことを、思う。

 

この作品は、そもそも、出版するための確約が、どこからされているわけでもない。

 

ただの、一介の素人による手作りが、誰かから求められるものなのだろうか。

何もかもが、判らないけれども、それでも、書き継いではきた。

 

これまでの人生、本当に、大変だったし、でも、救われようもなかった。

 

そういうことを、ようやく、小説の執筆という箱庭療法で、受け容れていけそうだ。

ただ……今年はまだムリかなあ。

 

まだまだ………商品になるには………調整が必要そうです………。

 

 

人生における、2.0をこれから始める所存です。

 

物心ついた頃から、何となく疎外感があって生きづらかったけども、そろそろ『楽しんで暮らせる』までには生活が向上しました。


しかしコロナのため、このままだと食べて暮らせなくなる予感。


なるほど、間に合わせてくれたのか。


これから、経済的にも頑張ろうと思います。


心の中には、いつも平穏を。

 

 

逃れられなかった視点について書こう

最近、人間関係がそれまでと比べて変容していっていて、それはそれほどに成長したということなんだろうけど、また、それまで自分では見えなかった自分の実力不足や、本当に恥ずかしい感じが見えてくるし、余裕がなくって、疎かなコミュニケーションをしてしまう自分が本当に嫌になる。

 

もう、そんな新段階へ踏み入れられるくらいには、準備ができたんだということなんだろう。
知ってはいたけどダメ人間だし、今も間違いなくそうなんだけど、引き続き、恥をボロッボロに晒してしまう(恥を晒す=全て良い ではない)生き方になってしまうし、嫌なんだけども、

 

結局自分は自分にしかなれないし、器用に日々を過ごしたいんだけどもそれがなかなかできないし、こんな感じでブログ等で他者に向かって心中を晒していくことが知り合っている方々へどのような影響を与えるのかはわかる分はわかっているし(別に全然見てないよ、と言われるパターンだって知っているし)、

 

「自覚はしています」という言い訳が、何でもかんでも通じるはずもないということもわかっていて、お前の悩みの何でもかんでもを受け止められるわけではないよ? とも何度も無言で言われてきた人生だったのだけれども、

 

そもそも何をどのように扱われたって潰えない自分自身があって、それは、変に自己否定したってさらに強化されてしまう話でしかなかったから、やっぱり、少なくとも、死ぬまでは、自分を表現して生きていかざるを得なかったから、

 

死ぬ度胸があるわけではなかったから、たとえ、死ねと誰かに脅迫されたところで、生きていかざるを得なかったし………………………。

 

こんな風に『分からない誰か』から追い立てられるような感じでは、何というか、生きたくはないし、こんな風な生活は早く止めて、俗世から離れて、どこかで滔々と暮らしたい。

 

暮らしたいんだけどもまだそれがなかなかできないからやっぱり今はあまり世界が(恐らく)そんなによく見えていない中でどうにか手探りでやっていかざるを得ないし………………………。

 

それにしても、本当に、一体、オレは誰と闘ってるんだといつもいつも不思議なんだが、そんなんでも生きていかざるを得ないのだから、でも、適度に好き勝手には生きてやる。

 

先日、チベット語の講座を2時間受けて、後はとても好きな喫茶店に行って、こんな風なことを延々と考えた。もしこんなんが既に悠々自適だよ、そんなに仕事できてねえくせにと言われてしまうのかもしれないのであるが。

 

そんなら何で、好きな言葉を習ったり、延々と物事を考えたりする時間を持てないような状態を、自他共に是としてきたのですか? と、逆に、聞き返してやりたい。

 

疲れているときは、ちゃんと、休憩することができないと、往々にして、自分をコントロールできなくなってしまう。
ただでさえ既に、突然仕事ができなくなってしまう状態に、襲われることだってあるのだから。
だから、なるべく、どうにもこうにも取り返しが付かなくなってしまう前に、殆ど、たとえ、自分の意思と間違いなく反していおうと、体の声に従って、休んでいく必要がある。
そうすることで、意外と、余裕を保った状態で「悩む」ことができたり、余裕があった状態で悩むことができると、ちゃんと、閉塞した状況に対する、打開策みたいなものが見えてきたりもするから、分からない話なのだ。

 

だから、僕は、毎回毎回、無数の後ろめたさに襲われながらも、体を休めようとしている。
周りから「ダメ人間」だと内心で思われていたりするのは、なかなか、辛いことだ。しかし、僕のことをダメ人間だと考えてきた人たちは、残念ながら、僕をダメ人間ではない感じにさせるための打開策は、誰一人として持ってなどいなかったことが、今までの経験から、分かっている。

 

けっこう僕はこれまで、「こんな自分なんだからダメなんだ」と、無理をしてきた。
意外と、けっこう、無理をしてきた。
そうして、周りからは意外に思われるくらい、他者に対して、気を遣ってきた。
だから、僕は、けっこう『バカな人間』だと、思われている。それは、まあ、良いのではあるけれども………。

 

お互い様なんだよ。大変なんだよ、お前だって。

 

「自分で"無理をしている""頑張っている"と思えている時点で、まだまだ、全然、無理をしている範疇に入っていないし、頑張れてなどいない」的なヤバい文言とだって、相当、向き合ってきた。

 

そういうことを言う人たちとは、往々にして、「自分が、既に死んでいるということにすらまだ気づけていない、ゾンビたち」であったのだと、残念ながら、言い切っていかざるを得ない。

 

自らが、破滅してることに、気づいてない。
いや、気づいているかもしれない。
それだったら、良い。尊敬できる。

 

けれど、タイプというものが、ある。
僕はけっこう、その手の人たちの努力を倣ったところで、もう、更なる破綻を招いてしまったし、更なる破綻を招いてしまったあの頃の自分を、助けられる人間など、残念ながら、その指導者も含めて、誰も存在しなかったから、自分の身はもう、自分で守らざるを得なかったから……………………。

 

お前だって、大変だろう。

 

お前が、お前として、ちゃんと、「大変なんだ」という事実をちゃんと受け留めなければ、いつまで経っても、お前がゾンビになっていて、無自覚に、他の人々を更なるゾンビにさせようとする、恨みがましい行為をしていることに、気づけやしないんだよ。

 

お前がちゃんと「大変である」と気づけなければ、自らが、ゾンビになってしまった境遇への不満を、他者である、多少は優しいオレに対してどうにかこうにか責任転嫁しようしようとし続けることから逃れられないし、そろそろ、オレがお前を救えるわけではないし、オレに甘えたところで、どうにもならないことに気づけよ!!!!!!!!

 

***

 

オレにできるのは、現状のところ、文章を提供することだけ。

「誰も、悪い人なんて、存在しない………」と、考える生涯を最後まで送っていこうと思うのです。

どうしようもないほどに、答えは、世界人類における、それぞれの中だけに存在している。

 

自分以外の、誰かの中には、絶対に、存在していない。
存在していれば、どれだけ、ラクかなあって、思いますよ……………………………。

 

やっぱり、立ち向かうべき相手は、"集団的な無意識" ですよ。そこに、"黒幕" はどこにも存在しません。たとえ、"黒幕" が存在しているように思えていたとして、それは、様々な気の流れで、培養されてしまった人格という感じですよ。

 

………そんな風に考えて、結局は、誰しもが、手を取り合えた方が、良さげじゃないですか。

 

んっ?
つまるところ、お前は、何を言いたいんだ?
ですって?

 

お答えしましょう。

 

ぼくは、「死にたくない」んです。
まだまだ、絶望をしたくはないというか………もう、こりごりなんです、絶望するの。

 

ただただ、それだけなのです。

 

ぶっちゃけ言うと、特段、主張など、ぼくには存在しないのです。

 

絶望したくないから、、、自分の中からは、必要最低限のエゴばかりを、見出そうとしてるのです。

 

ただただ、、、それだけなのです。

 

 

 

チベットへ一体何を求めていた?

チベットに何を求めてるんだろう…………。

 

「決して、何かをぶっ壊すようなことをしたくはない。
平穏で、暖かい日々を欲する。
でも、あるがままに、自由に生きたい。」

 

それらの理想を内包して、まるで、叶えているかのような世界の象徴のようなものを、チベットに、ものすごく勝手に、託していたわけです。

 

あるがままを希求する=制度をぶっ壊す、では、全くないと信じています。

 

そんなに、悪いことをしたいとは思わないです。
だから、それなりに自由に、生きさせてほしいなあと常に世界に対して、思っています。

 

(ちゃんと、『若気の至り』は、誰しも、通過する必要があるのですから………………………)

 

まあ、結論から言えば、今、現時点で、けっこう自由に生きさせて頂いているなあという気はしますよ。

 

願わくばそれが、永遠に継続されて欲しい………………………。

 

味わう不幸や幸福は……………それなりに感じてスルーできるくらいの………………軽い、浮き沈みだけで………………良いです…………………………。

 

たとえ、どのような状況においても、たとえば、チベットの人たちが、ポトラ宮のあるラサから何千キロも離れたところに位置する自分の住んでいる村から、五体投地で、数ヶ月かけて、その、長い道のりを踏破するように…………………。

 

そんなに、悪いことをしないで、平和に、素朴を感じて、生きていけないかと考えております…………………………。