小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ③

 

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ①

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ②

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ③

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ④

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑤

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑥

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑦

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑧

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑨

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑩

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑪

 

 

 

「するとエーミールは、たけり狂ってぼくをどなりつけるかわりに、ヒューと歯笛を吹いて、ぼくをしばらくのあいだじっと見つめ、それからこう言った。・・・・・

 

『そう、そう、きみって、そういう人なの?』」

 

 蓮池が、ヘルマン=ヘッセ「少年の日の思い出」の、ラスト部分を音読している。耳障りでない程度に大きな声で、大げさではない程度に感情を込めて、しかも一度も噛むことのない蓮池の音読は、クラスで好評であった。特に、「間」の使い方の巧さなどは、国語教師も顔負けの技術だった。

 

「ぼくは、ぼくのコレクションを全部あげると言った。・・けれど、彼はこう言った。

 

『どうもありがとう。きみのコレクションならもう知っているよ。それにきみが蝶や蛾をどんなふうに扱うか今日またよく見せてもらったしね』

 

 この瞬間、ぼくはもう少しで彼の喉もと目がけて飛びかかりそうになった!

 

 ・・・・・もうどうしようもなかった。ぼくは悪党であったし、悪党であり続けた。そしてエーミールは冷ややかに、軽蔑に充ちた正義の衣をまとって、世界秩序そのもののようにぼくの前に立っていた。彼は罵りさえしなかった。ただただぼくを見つめて、軽蔑していた。」

 

 彼女が癖のない声質で、情感たっぷりに読んでいる間、聴衆は一度も顔をしかめず、あくびもしなかった。

 

「もうぼくには遅い時間で床に就かねばならなかった。けれどその前に、ぼくはこっそりと食堂に入って大きな茶色いボール紙の箱を取ってきてベッドの上に置き、暗がりの中でふたを開けた。それからぼくは次から次へと蝶や蛾を取り出して、それらを指で粉みじんに押しつぶしてしまった。」

 

 最後まで読み終わった。余韻を感じさせる間が少しあった後、拍手が沸き起こった。

 

 すげー。すっごーい。さすが。やっべー。いやもう、ホント尊敬するよ! 主に男子の感嘆の声が、あちらこちらで上がった。好きだ~、結婚しよう、という吉木のふざけた発言は、皆笑った。

 

 

 その声を聞いた瞬間、篠崎は、教科書からさっと顔を上げた。

 

 その声を聞いた蓮池は、顔を少し赤らめた。

 

 

 お世辞抜きで素直に蓮池千里を褒め称える、温かい空気が生じて、ゆったりと教室内を流れる。空間に、笑顔が溢れた。

 

「すごい! さすが蓮池さん! 日本一!」

 いきなり、樹村の高音で張りのある大きな声が、教室に響き渡った。

 

 その声によって、クラスの気が緩むムードは、熱せられたフライパンに入れられた氷のように、すっと消えてしまった。

 

 さきほどとは打って変わって、冷たく、荒んだ空気が瞬時に学級を支配した。生徒から笑顔が消え、代わりに白けた表情が主流となった。冷ややかな視線が、樹村に集まった。二度、舌打ちが鳴った。

 

 樹村は、空気の変わりように気づいた。彼は、何秒間かおろおろ視線を泳がせた後、眉間にしわを寄せ、目を強くつぶり、両手で顔を覆った。

 

 蓮池は、困ったような笑顔を浮かべて、「ありがと。」と樹村に声をかけた。その言葉を持ってしても、この空気を温める作用は無かった。

 

 そんな空気の中、おかまいなしに石原が口を開いた。

「はい、蓮池さん、ありがとう。みんなが盛り上がった通り、素晴らしい音読だったと思うよ。ええと、最後まで来たわけなんだけど、みんなどう? 結構、心が刺激されるような、ちょっと衝撃的なラストだったんじゃないか。じゃあそれでは、学習していきましょう。」

 そう言って石原は生徒に背を向け、チョークを持ち上げて、腕を上げて黒板に白い文字を書き始めた。

 生徒は一斉に、国語ノートの新しいページを開いた。紙がこすれる音が教室内を牛耳った。カチカチとシャーペンをノックする音が耳についた。冷たい雰囲気は溶かれて、ひたすら無機質な空気が、もやの様に立ち込めた。

 

「はい。ええと、『僕』がエーミールに標本を壊してしまったことを謝るシーンなわけですが。エーミールは謝った僕に対して、怒りもせず、すっごく冷たい態度で接したわけだね。これ、怖くないですか? ふざけんじゃねえ! とか言って怒鳴るわけでもないし、いいんだよ、また採りに行けばいいんだから、みたいに言って慰めるわけでもない。どう思う? 村主?」

 

「え・・・・・はい。やっぱ怖いと思う。」

 

「そうだよね。じゃあ篠崎、お前はどう思う?」

 

 石原が篠崎を呼んだことによって、三十五人の空気が張りつめた。

「はい。・・・でも、怒鳴られた方がよっぽど怖いと思います。」

 

 石原が可愛いと思ったその小さな声で、篠崎は言った。

 普段は運動音痴な人が、突然跳び箱八段を跳んだ時のような意外な驚きを、誰しもが覚えた。張りつめたムードは、自然消滅した。それほどまでに篠崎は、常は無口で、自分の意見を言わない人種なのだ。

 

「え? そうなの? え、でもなんか怖くない? だってなんかもう、ずっと冷たいんだよ、エーミール。一思いに怒鳴り散らしてくれ、ってならない?」

 

 篠崎の読解の不十分さを心配してか、もしくは自分の考えが思い通りにならないことを不満に思ってか、石原は篠崎に再度聞いた。

 

「・・・・・怒鳴られる方が、よっぽど怖いです。」

 相変わらずか細い声で、篠崎は言った。しかし、そこは絶対に譲れないという、強い意志を、周りは汲み取った。そしてそのせいで、教室に気まずい空気が漂った。

「・・・そうか、色々な意見があるね。」

 石原は、ボソッと言った。

 

「そしたら、じゃあ吉木、この話を読んでどう思った?」

 

 石原が吉木の名前を出したことで、クスクスという忍び笑いが、あちこちで湧きあがった。石原もニヤニヤ笑っている。しかし、その中でも、吉木祐太が一番ニヤニヤしていた。

 

「先生・・・俺なんかでいいんですか?」

 

 俺しかいない、という叫びが聞こえそうなくらい自信の溢れた声で、吉木は言った。それに応えるように、忍び笑いが更に大きくなった。おう、やっちまえー。小池のそんな声がした。

 

「おういいぞ。お前の意見を聞かせてくれ。」

 

 そういわれて、黒板と廊下に一番近い、隅の席に座っていた吉木は、立ち上がった。そして、観衆に向き合うように、左斜め後ろへ振り返った。

 

 観客から、拍手がまばらに起こった。ごく少数のそれに倣って、手を叩く人がだんだん増え、万座の拍手になるにはそう時間がかからなかった。吉木は上を見上げて目をつぶり、アメリカ人のように両手を斜め前に出した。そして、拍手の音を楽しむかのように、肩の力を抜いた。

 

 十秒ほどそうしたのち、彼は音を止める指揮者のように、腕をゆっくり優雅に上げて、自分の頭の上まで来たらそこで止めて、手首を使って外にあった手を内側へと動かし、ギュッと手を握った。拍手の音はピタリと止まった。

 

 吉木は腕を降ろした。そして、森林浴を楽しむかのように、手のひらを広げて腕と上半身を少し反らせて、深呼吸をした。空気を吐き終わった。その後、五秒間、何もしなかった。吉木の次の行動を期待する、活き活きとした沈黙が流れた。

 

 さあ吉木が右手を、口の横まで上げて、顔を手と同時に前に倒した。観衆は身構えた。

 

 しかし急に顔と手の動きが止まった。聴衆は、ジェットコースターが坂を上りきって、さあ下るぞと心を決めたにも関わらず、急にブレーキがかかった時のようなじれったい心境になった。

 

 早く言えー! そんなヤジが飛んだ。吉木はヘラヘラ笑ったあと、何の予告もなしに言葉を発した。

 

「なんという深い話でしょうか。主人公の『ぼく』の微妙な心理の変移が、とても繊細、且つわかりやすく表現されています。大人二人が、少年時代を懐かしく語るシーンが、物語の始まり。蝶や蛾の採集に、主人公が無邪気に熱中していたこと。エーミールという少年が気に喰わなかったこと。主人公が喉から手が出るほど欲しかった蛾を、エーミールが手に入れたこと。そのことを聞いた時の、主人公の興奮。その興奮から主人公が犯してしまった、クジャクヤママユの窃盗。良心が目覚めた時の焦りから、蛾を壊してしまった主人公。そのことでエーミールに謝った際の、彼のとても冷たい態度。そして、自分のコレクションを粉みじんにするという終わり方。この短編小説を読むだけで、どれだけ多くのことが学べるんでしょうか。良い作品を、出版社は教科書に組み込んだものですね。

 

 さて、先生の質問でもあったので、今からはエーミールとぼくについて、俺の考えを述べさせてらいます。

 

 『ぼくはねたみと感嘆の思いで、彼を憎んでいた。』とありますが、エーミールは、完璧すぎるが故に、みんなに気味悪がられていました。そんなエーミールは、本当はどういう人物だったのでしょう。

 エーミールの、標本の手入れの素晴らしさ、蝶の羽を繋ぎ合わせて修復する技能から、彼の恐ろしく几帳面な気質がうかがえます。きっと彼は、病的なまでに完璧主義だったのでしょう。主人公のとっておきの青いコムラサキの標本を、彼が徹底的に批判した場面がありました。主人公は、彼のその細かい指摘を、『あら探し』と称します。しかしあれはエーミールが、主人公の標本作りのいい加減な部分を、素直に指摘しただけに過ぎません。主人公の視点でこの話が書かれているから、彼は凄く悪い奴に思えてしまいます。しかし彼の本質は、妥協せずに丁寧な作業が出来る、世の中に大きく貢献できる人です。こういう性質の人間はあまりいません。貴重な存在なのです。

 

 逆に、そういう長所に気づかなかった主人公は、俺の嫌いなタイプかもしれません。主人公が、自分を客観的に見ることができれば、エーミールの完璧さに、自分が嫉妬しているだけだということに、気づけたはずです。そしてそんな主人公のような、自分自身を見られない人が、色々な差別を他人と同じように、当たり前のように行うのです。社会的に、良くない存在です。

 人間としての才能は、主人公よりエーミールの方が上でしょうね。

 

 話を戻します。それから主人公は、自分が欲しかったエーミールの蛾を、誘惑に負けて盗んでしまったというわけです。さあ、『誘惑に負けて』という部分を除いてみて、主人公の取った行動について、皆さん考えてみてください。ありえません。同情の余地もない。『誘惑に負けて』を省く俺の考え方に疑問を持つ人は多いかもしれません。そんな人達に言います。日々のニュースでよく出てくる窃盗犯を、軽蔑する人は多いだろうと思います。そんな窃盗犯に、『誘惑に負けて』という動機が無いと、あなたは思いますか?

 このことを考えると、主人公の心情は、軽蔑される犯罪者と全く変わらないわけです。規模が違う、という意見がありそうですが、悪者というのはそういう小規模な事を積み重ねて、最終的に覆面を被って銀行員に銃を突きつけるものではないでしょうか? そうです。小さいことでも、悪は許されません。

 主人公が、蛾を壊したことを謝ろうと、エーミールの家を訪ねました。そこでエーミールは、『すぐ』に出てきて、何者かによってクジャクヤママユが壊されたと言いました。部屋に行くと、彼がボロボロになった羽をなんとか修復しようと、努力をしていた跡がありました。そう、どうしようもない状態の羽を、なんとか直そうと、必死だったわけです。主人公が一度見て、もう駄目だと『すぐ』に諦めたにもかかわらずです。それくらい、エーミールにとって大切な宝物だったわけです。それを奪ったわけだ。主人公がエーミールに何をされようと、何も文句は言えない。

 

 主人公自身自覚したように、一度だめにしてしまったものは、二度と思い通りにできません。どういう理由でも人を殺したら、絶対に生き返らない。そして被害者の遺族、親戚、知り合いにずっと恨まれることになります。それと本質は同じでしょう。

 

 最後に、主人公は自分のコレクションを、自らの手で粉々にしました。これは、エーミールへの主人公なりの贖罪の行動だったわけです。意味はないですが、どうにか謝罪したかったのでしょう。そのおかげで、冒頭の、既に大人になっている主人公は、一見犯罪に手を染めている風には見えませんね。コレクションを壊したことによって、現在の『彼』があるわけです。・・・・・

 

 これで、俺の『少年の日の思い出』に関する考察を、終わりにさせて頂きます。

 関係のないことを、せっかくなので付け加えておきます。

 石原先生、篠崎さんの意見に『本当?』というように念を押しましたね。しかも、『色々な意見があるね。』と言って、彼女の意見を正解から疎外するようなことを言いましたね。先生は阿呆なんですか?

 篠崎さんを可愛いと言ったり、自分の考えと合致しないと突き放してみたり・・・・・。石原先生は、どれだけエゴイストなのでしょうか。信じられません。反吐が出ます。・・・・・・・・・・

 

 以上! 皆、俺の話を聞いてくれてありがとう!」

 

 吉木は椅子に座った。

 

 

( 一部引用:岡田朝雄 訳『少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集』より )

 

 

 

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