小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑥

 

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ①

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ②

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ③

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ④

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑤

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑥

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑦

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑧

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑨

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑩

小説『中学生の日常 ~二年六組編~』 ⑪

 

 

 

 男共は準備体操を終えて、適当に二列を作り、体育館の出口から外へ出た。誰一人、ビーチサンダルを履いていない。

 

 プールの敷地内に入った。混み合う中、キャップを外して冷たいシャワーを浴びる。ぐわー、という野太い奇声が上がる。生徒の中には、シャワーが冷水を容赦なく吐き出す関所を通る際、めり込まんばかりに体を、端にある壁に寄せて、そのまま進み、シャワーを回避しようと試みる輩もいた。そんな彼らの悪行は、体育教師に見られている。無傷で通過しても、待ち伏せしていた強面の西田教諭に捕まえられ、片手で体を操作され、関所に押し戻される。酷い場合、シャワーを三十秒間、浴びる刑に処されることもあった。

 

 シャワーの次は、消毒である。消毒成分の多く入った水たまりに腰まで浸けて、十秒間耐える。腰まで浸けていなかったことを見張りの体育教師に見られていたら、勿論、やり直しだ。

 

 「冷」の地獄からほうほうの体で抜け出すと、太陽の光を浴びて青々と光っているプールに辿り着く。手前の岸には、水泳の大会で選手がスタートする際に立つ、台のようなものがある。すぐ左には、眼等を洗うための蛇口が、十個ほどついている流しがある。

 

 右岸には、既に女子が勢揃いしている。

 女子が足をバタバタさせて、水を跳ねさせ、それを体に浴びて、黄色い歓声を上げている頃に、男子地獄脱出者第一号が現れるのだ。

 次々と脱出者が現れ、男子も全員揃った。岸辺に腰を降ろし、足を浸して、西田の笛が鳴ると、激しく上下に動かした。

 うおー、どわー。男子の黒い歓声が上がる。その間に女子は水の中に入る。いやー、きゃー。黄色い声が上がる。

 まずプールの横の十五メートルを、半分まで歩き、戻ってくる。次は壁を蹴って、脚をバタつかせず、そのままの状態で半分まで進み、戻る。その次はバタ足で。ラストはクロール。

 女子が先にそれらを終えて、プールサイドを歩き、スタート台のある岸まで行く。続いて男子も終わり、陸へと上がって女子と同じ方向へ歩を進めた。

 体育教師が赤や青色の、プラスチック製のとても長いものを五本、プールの端から端へ渡して、幅が均等な六コースを仕切った。それらのコースごとに右から、四組女子、五組、六組、六組男子、五組、四組と、集まって、五十音順に並んで座った。

 中年女性の体育教師、高田教諭が拡声器を片手に言った。

「クロールを二往復、平泳ぎを二往復!」

 先頭の人たちがプールに体を沈める。西田が笛を鋭く吹いた。六人が一斉に壁を蹴って、水を掻いて、水を足で叩いて、水飛沫を上げて進んだ。前が行ったら次の人が水に入る。笛が鳴る。泳ぐ。

 十番目がスタートした。観衆の目は、六組女子、蓮池千里に釘付けになっていた。彼女は、恐ろしく速いのだ。男子も含めても、学年で十本の指には入るだろうと、噂されていた。その前評判を裏切らない泳ぎを、蓮池は魅せた。バスケットボールで鍛えた強靭な脚力が、水を強く、速く蹴って、圧倒的な推進力を生み出していた。

 

 いけー蓮池! チサトファイトー! 蓮池さん頑張れー!

 多くの声援を受けて、蓮池千里は凄まじい速度で泳いだ。

 そして、あっという間に向こう岸に着いてしまった。

 六人の中では、彼女が一位であった。それから四秒後くらいに、四組の男子が岸の壁に手をついた。それから、五組男子、五組女子、四組女子の順にゴールした。

 つまり、六組男子がまだゴールしていなかった。そう、樹村哲哉である。

 彼は五メートル位の地点で、止まっていた。

 止まっているといっても、小柄な彼は、普通に立っていたら、鼻まで水に侵されてしまう。なので絶えず水底を蹴って跳ねて、水から顔を出すことによって、どうにか空気を吸っていた。

 その姿は必死そのものだった。

 そうやって跳ねているが、底を蹴る際、前に蹴り出すことによって、彼は少しずつ進んでいる。しかし前へ体を運べば運ぶほど、水深はだんだん大きくなっていく。

 樹村の表情もそれに比例して、どんどん苦しそうに歪む。六組のコースには、岸のように絶対に動かない物が何も無い。つまり、しがみつけるものが存在しないのだ。彼は一度、コースの仕切り目をやった。しかし、すぐに目を背けた。

 そんな時、十一番目が出発する合図の笛の音が、非情にも響いた。

 六組男子の泳者が、樹村を、あっという間に追い抜かした。その際に水飛沫を浴び、樹村の顔にかかった。鼻の穴に水が入り、更に待ったをかけず、体が水中へ沈んでいった。その彼の表情は、苛立ちに溢れていた。

 死にもの狂いで水と戦いながら、樹村は、自分を勢いよく通過していった人間に目をやった。

 プールの水と違う成分の液体が、ゴーグルに溜まった。

 彼は啜り泣いた。涙を啜ると同時に、プールの水も啜ってしまい、むせ返った。咳き込んだら、顔が水の中に沈んだ。もがいたら、水を飲んでしまった。苦しそうな表情を浮かべながら、がむしゃらに手と足を振り回した。どうにかして顔を水から出すことが出来た。彼は恐ろしく咳き込み、水を幾らか吐いた。

 

 顔を左右に振った。彼の周りに、掴まるものは、何もない。

 

 十二番目の笛が鳴る。その時、彼の涙の量が増加した。目を真っ赤に腫らしながら、酸素を求めた。水からどうにか口と鼻を露出させようとあがく彼の様子は、とても惨めに見えたことだろう。

 十三番目の笛が樹村の鼓膜を振動させた時、やっと彼は、水深が最深部のゾーンを通過した。

 丁度その時、十三番目のクロールの降ろす手が、彼の頭に当たった。樹村の顔は、水に沈んだ。彼はその時、息を吸っている真っ最中であった。よって、思い切り水を飲んでしまった。目を強くつむって、もがきながら顔を、水から上げた。

 彼は激しくむせ返り、水を多量に吐いた。一番水深の深い地点を抜けたからといっても、依然、水深は大きい。彼はまだ、顔をつけずに立つことができない。

 

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ

 彼の体は、息をすることを最優先に動いていた。そのせいで、めっきり進まなくなった。

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ!

 

 彼の肺は安定を求めていた。十四番目出発の笛が鳴る。もう彼には、泣く余裕すらなかった。生きることに精一杯だった。

 

 ハッ、ハッ、ハッ、ハ、ハー、ハッ! ハッ! ハー!

 

 十五番目。徐々に進むことが出来るようになった。

 しかしまた、クロールで頭を押さえつけられた。

 だが今回は、その瞬間、呼吸をしていなかった。顔はしかめていたが、苦痛ではなさそうであった。

 そこから更にペースが速くなった。

 十六番目。

 そしてとうとう、両足で立って、顔が完全に出るところまで来た。あとはただ歩くだけである。彼は歩いた。どんどん歩いた。一生懸命に水の抵抗に逆らって、力強く歩いた。彼の顔は満身創痍そのものであった。

 十七番目。あと十メートルほどで向こう岸だ。ペースが一層速くなった。

 十八番目。

 しかし彼の脚は、少し震えが来ていた。体力があまり残っていない証拠だろうか。すぐにペースが落ちた。

 十九番目。ああ、どんどん落ちていく。今にも力尽きて、倒れてしまいそうだ。

 二十番目。その笛の音を聞いて、彼の表情は一変した。明らかな恐怖の色が、一目でわかるほどに、おびえた相貌になった。

 

 ちなみに五十音順の二十番目は、吉木祐太である。

 お化け屋敷で怖くなり、奇声を発して走って逃げる女の子がよくいるが、今の彼の雰囲気とよく似ている。岸に着くことに、というよりは、逃げ切ることに死力を尽くした、と言うのが適切だろう。

 しかし今度は、吉木が速い! すさまじい速さだ。今まで泳いだ人の中でも、三本の指に入るだろう。

 

 樹村は逃げる! 吉木は進む! 果たして、樹村はとうとう吉木に追いつかれた。あと三メートルだった。樹村は逃げ切ることが出来なかった。

 しかし吉木は樹村に何もせず、悠然と泳ぎ続けた。そして壁にタッチして、ガバッと水を飛び散らせて立ち上がり、陸に上がった。

 

 少し意外そうな顔をして樹村は、歩くことを続けた。そしてやっと、二十五メートルを踏破した。疲労困憊の表情である。壁に手をついたら、樹村に影が被っていた。彼は上を見上げた。

 吉木がプールサイドで片膝をついて、樹村に右手を差し伸べていた。彼の顔は、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。目が虚ろな樹村は、吉木に右手を差し出した。吉木は樹村の手を握らず、薬指を手に取った。そして何も言わずに、第二、第三関節の間をつまんで、指の腹に吉木の親指を当てた。

 

 吉木は指圧をするように、親指に強い力を加えて、樹村の薬指を、外側へ押し曲げた。

 

 樹村は顔全体が苦痛を耐えるように歪んだ。眉間にしわを寄せた。

 吉木は、急に樹村の右手を離した。直後に、自由になった自分の右手を、そのまま、樹村の額の近くに移動させた。右手で「OK」マークを作り、その丸めた人差し指の爪に、親指の腹をくっつけた。

 人差し指にグッと力がこもった。親指を内へ動かした。すると人差し指は、弓を射る原理で一気に解放されて、おそるべき力を得て、樹村の額にぶつかった。

「いってええ!」

 彼は声を上げた。慌てて両手で、当たった部分を押さえた。

 刹那、樹村は猛烈な憎悪に燃えた目で、プールサイドの上を睨み付けた。

 彼の眼の向く方に、吉木の姿は無かった。吉木は樹村に人差し指を打ちつけた後、すぐに立ち上がり、何食わぬ顔で出発場所に向かって歩いていたのだ。

 樹村はプールサイドに上がって、ゴーグルを外した。レンズに溜まっていた液体が、ポロポロとこぼれた。瞳からも、涙がこぼれた。頬を伝って、地面にポツリと落ちた。後からあとから落ちるてくる。

 彼は目をこすらずに歩いた。出発する岸に着いた。大勢の人々が座って、出番を待っている。樹村はそんな人たちから目を逸らし、五歩ほど歩いて、プールを囲む柵の片隅まで行った。彼は柵を背にして、そして背中を柵につけて体操座りをした。

 両膝に、額をつけた。

 

 人目を憚らず、声を大にして号泣した。

 

 

 

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