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異文化にて 〜韓氏意拳体験記〜 ③

 

目次

異文化にて ①

異文化にて ②

異文化にて ③

異文化にて ④

異文化にて ⑤

異文化にて ⑥

 

 

 講習生が周りの人たちと距離を取って、肩幅で立とうとするより少し前、座学の時間で光岡先生から、『身体感覚のジェネレーションギャップ(世代間格差)』について、説明を受けた。

 

 光岡先生の説によると、現代の日本人は両脚をきつくそろえて真っ直ぐ伸ばして立つ『きをつけ』の姿勢ができるが、昔の、明治維新によって西洋から『きをつけ』をする文化が入って来たときの日本人は、光岡先生が当時の写真や資料に目を通す限り、きをつけの姿勢が取れなかったのだという。

 当時、学校もなく、一日中腰を落として農地を耕したり、米を一俵(約60kg)平気で背中に担いで運んだりするような現代とはちがう生活を送っていた、きをつけをする必要がそもそもなかった日本人は、むしろ、ずっと中腰を維持できる体の方を無意識に求めることが合理的だった。ゆえに、人々の膝は関節がずっと曲がったままで、伸ばしたくてもすぐには伸ばせなくなっていたらしい。

 だから、当時の人々の立ち姿は、ダーウィンの進化論によると人類の祖先であり、人類の『進化前』だとされる、ゴリラやチンパンジーなどの類人猿に少し似ていた。発展途上国の奥地などには、今もそのような体の人がいるらしい。

 

 昔の人が、きをつけができない体だったと聞くと、きをつけが当たり前のようにできる僕らの感覚からすれば不思議に思えてしまうが、過去のように体の機能をフルに用いて生活しなければならなかった人たちにとって、きをつけは余計だった。

 

 むしろ現代の僕たちが、そもそも『両脚をきつくそろえて、真っ直ぐ伸ばして立つ』という、全身が緊張して固まり、どことなく窮屈な気分になって、誰かに押されたらすぐに倒れてしまうような、とにかく体のあちこちの機能が強制的に弱らされてしまうこの姿勢を取れてしまうのはなぜだろう。僕たちはあまり、そこを考えられないでいる。

 

 きをつけができてしまうことが悪いわけではない。時代には、その時代のニーズ合った体がある。僕たちは、60kgの米を担ぐ必要がなく、体の機能をフルに使わなくてもどうにか暮らしていける時代にいる。東京から大阪まで約2時間で移動できて、イスに座って机の上にあるテキストやパソコンが映している内容に何時間も向き合わざるを得なくなって、その日食べる分を近くのコンビニかスーパーに行って30分も経たずにそろえられるような、スピーディーな世の中を生きている僕たちは、むしろ、電車やエアコン、スマートフォンなどの都市の幸を有効に活用していかなければ生活が成り立たなくなってしまっているようなところもある。これを書いている僕だって、パソコンに向かって何時間も文章を書くことが楽しいと感じるようになった人間だ。

 

 そんな人たちは、日常において、肩が凝ったり、やたらと目が疲れたり、頭を抱えて悩み苦しんだりと、主に、頭と肩の周辺で起こる何かに気をとられがちだという傾向がある。

 

 いわば、頭や肩より下にある、腰や、足などの体の部位にあまり意識が向いていない、光岡先生に言わせれば「足腰が消えて、頭や肩だけの世界で生きている」ということになる。

 

 現代の生活に順応しようとすれば、とにかく人目を気にして、目まぐるしく考えをめぐらせながら、行動をしなければならないような気がしてしまう。それは、必ずしも悪いことではないだろうが、たとえ、自分の体の素直な反応を信用しないで、周りの有言無言のアドバイスを受け入れて努力しようとしても、結局は、さらに頭の中の雑音が増えてしまって、何もかもがどうにもならなくなってしまうところへと向かってしまうばかりではないだろうか。

 

 僕は、どうにかして現代の社会に順応しようと、試行錯誤した結果、ますます何かが破綻してしまい、破綻してしまったことに対して、現代の社会から特に気を配られないまま、むしろ見殺しにされて今日まで来た。

 

 僕は、韓氏意拳の講習会で站椿功(たんとうこう)という稽古を教わった。

 

 

 僕が、韓氏意拳がどういうものであるかを、韓氏意拳の講習会で経験したありのままをただただ正確に記述することで伝えようとすればするほど、僕の紡いでいく文章は、僕が本当に経験してきた体の変化とすれちがっていく。

 

 また、僕が体験した手順を、その通りになぞったからといって、そのとき、僕が体験した感覚の変化を、同じように追えるかどうかも、保証できない。

 

 そして、これから僕が書いていく感覚の変化の過程が、見習うべき、正しいことであるかも、僕にはわからない。

 

 僕は、韓氏意拳のことがよくわからないままに、この文章を書いている。

 

 

 周りの人と距離を取って、肩幅の姿勢で立った十数人の講習生の目の前に向き合って、同じく肩幅で立っている光岡先生は、こう言った。

 

「頭にある “気” を、肩へと落としてください」

 

 まるで、自分の中へと沈み込んでいくかのような、声の発し方だった。

 

  “気” という言葉が体における何を指して、どのような意味を持っているのか、『頭にある気を肩へ落とす』ために、具体的に、何を、どうすればいいかについての、事前の説明はなかった。仕方がないので僕は、まず、 “気” を、 “意識” という言葉が指す意味と同じものだと仮定することにした。

 

 ずいぶん前から、僕には、後頭部の頭皮辺り一帯に、常に緊張が張っている感覚があった。つまり、凝っていた。凝っているということは、僕の中でそれだけ無意識に意識が常に集中していると考えられるかもしれない。僕は、すでに意識が集中しているその一帯に、さらに、意識を徹底的に向けてみて、その意識をそのまま、首の骨や、その骨の周りにある筋肉や、その筋肉の周りにある皮膚に伝わせることで、肩まで、じっくりと下げてみようとしてみた。

 

 不思議な感覚におちいった。周りの世界が、少しずつ、静かになっていった。耳の近くや、頭皮に入っていた力がすっと抜けて、頭の中が鎮まっていく感じだった。

 

「肩へ落とした気を、今度は、肘へと落としてください」

 

 同じやり方を踏襲して、今度は、肩の気を肘へ落とそうとすると、さらに、世界が鎮まっていく。それまで、僕の肩に、知らない間に入っていたらしい無意識の力が、どこかへと、自動的に、抜け落ちていく感覚があって、すでに、かなり落ちついていたと思っていた頭の中が、さらに静かになっていく。

 

 その静けさを、何かにたとえて説明してみたいと思うが、それはそこまで重要なことではないのかもしれない・・・。

 

 

 数百年の歴史を刻んだ御神木が立ち並ぶ、誰もいない神社の境内で、子どものあなたが、たった一人、一本の御神木の根本に取り残されてしまった。どうしようもない事態にあなたはしゃがみこんで泣いてしまった。

 

 いくら叫んでも誰も出てこなかった。

 

 10分が経った。

 

 気がついて顔を見上げると、目の前には樹齢数百年の厳粛な樹皮の、刻み込まれた深い皺。聞こえてくるのは、風にゆれる、木々のざわめきだけ。

 

 

「肘まで気が落ちた両腕を、上へと上げていきます」

 

 

 

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