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異文化にて ~韓氏意拳体験記~ ⑤

 

目次

異文化にて ①

異文化にて ②

異文化にて ③

異文化にて ④

異文化にて ⑤

異文化にて ⑥

 

 

 

 体を動かすことが苦手だった。運動神経のいい人が三日もあればできるようになることが、六年練習しても覚束ない出来だった。ぼくにとって体を動かすことは、ぼくの運動能力の低さを周りの見世物にされ、変な動きを指さされて嗤われてしまうひとときでしかなかった。同じ人間のはずなのに、できる人とできないぼくとでは、何がちがうんだろうと思った。

 

 たとえば僕は、小・中学生のときやっていた野球をやっているとき、コーチから腰を落して構えるように言われたら、まずひざを曲げ、腰を落として、腰の落ちているような見た目をつくっていた。その様は、外から見ても腰を落としているように見えていたかもしれなかったが、バットを振るとき、力のみなぎる感じを覚えられなかった。体勢を低くして、守備についているとき、体が躍動する感覚が全く得られなかった。僕は野球が面白いとは感じられなかった。体勢を低くすればするほど、脚の辺りが詰まっていき、動きづらくなっていく感じすら覚えていた。

 

 韓氏意拳を経験した今、自室の姿見の前に立ってみて、站椿功で腰を落としたあとに、スイングをする真似をしてみると、両足が地面にしっかりと付いて、目一杯踏ん張っているような見た目にも関わらず、全く、両脚に、いつもの筋肉が詰まっている感じがなく、これまで感じたことがなかった心地良さを感じることとなった。何度でも、何度でも、振りつづけることができた。

 

 

 講習の日の午後、ライターの学校の授業を受ける予定が入っていたので、会場から電車で移動し、駅から歩いて教室に入ったときも、韓氏意拳の余韻は引くどころか、ずっとつづいている状態だった。風呂上りのときのように、こもりつづけている体温に意識が侵されてしまった、あまり物事に集中することのできない状態で内容が頭に入らないまま授業を聴いた。2時間の間、ノートに何もメモを取ることのできないまま、ぼくは再び電車を乗り継いで、家へ帰った。もう、夜になっていた。

 

 あまりにも熱が引かなかった。風邪なのかと思った。いつもなら頭に向かっていた意識が今度は体にばかり向かって、熱が未だに引かない状態だった。部屋の窓を開けて、靴下を脱いで裸足になって、しばらく、マンガを読んだりしてくつろいでいると、熱がだんだん引いていった。

 

 眠くなってきたので、布団に入ろうと思った。ふだん25時くらいに眠くなる僕だが、今回は21時に眠くなってきた。風呂に入って、23時には布団に入って眠ってしまった。目がさめると、前日はずっと取れなかった足の疲れも取れていて、熱もなく、咳も鼻水もないので風邪ではないらしかった。

 

 

 それぞれの人生は、それぞれのその時々に下す判断の積み重ねによって、おそらく、築かれている。

 

 この世において、実は、寄る辺となるものがどこにもないことに気づいてしまった僕は、それでも世の中を安定した足取りで歩いていくことができるようになるために、処世術のような何かを習得したいと思ってきた。

 

 その経過で、外界の勝手な影響を受けることで、自分の中に生まれてしまう興奮や緊張によって、自分の人生が、いかに自分にとって腑に落ちない方向へと流されてしまうのかということを、想ってきた。

 

 揺れ幅が大きすぎた僕は、揺れ幅を小さくしていきたかった。

 

 興奮や緊張に操作されない自分になっていくために、站椿功というフィルターに自分を通していくことで、だんだん、自分の力で、自分が落ちつけるようになれるための方法を、つかんでいけるかもしれないと思えた。

 

 

 ただ、その試みは永遠の途上にすぎなかった。

 

 

 数日後。

 

 道を歩いていると、冷たい風が、体に強く吹きつけてくる。首元に、冷気が侵入して、手が、かじかむ予感がしてくる。

 

 僕はこの買い物を最後にしようと思いながら、マフラーと手袋を求めて、とあるショッピングセンターへ入った。少なくとも、マフラーと手袋以外のものは買わないようにしようと思っていた。

 

 スペインの素朴な音楽が流れ、シンプルなデザインの文房具や食器、タンス、布団が並び、加湿器からアロマの匂いが漂っているその店で並んでいる服を見ていると、とあるジャケットに目を惹かれた。

 

 これまでジャケットを、自分の手で買ったことはほとんどなかった。ジャケットを、どのようにすれば着こなすことができるのかが、わからないままだった。だから、今までいくつものジャケットを見てきた中で、この、目の前にある、「あっ、なんか、いい」と思うことができた数少ないこのジャケットを、今、この瞬間、後々売り切れて手に入れることができなくなってしまう前に買わなければならないと思った。

 

 僕は、成長をしなければならなかった。成長する可能性が少しでもあることを、やろうとしなければならないと肝に銘じてきた。やらなければならないことは今成し遂げようとしなければ、これからもずっと生きづらい自分のまま、変わらないままとなってしまうのではないか。僕はこの想いに、強迫させられていることに気づいていた。

 

 僕は、成長しなければならないと思わされていた。成長するためには、やりたくもないことを「やらなければ!」と意気込んで、できるようにしなければならなかった。どうして、自らを苦しめるこのサイクルに自ら縛られて、やりたくもないことをやろうとしていたのだろうか。

 

 やらなければならないと思うことを、無理やり断ち切ろうとすることが、あまりにも辛かった。そうして、僕は狂ってしまったのだった。

 

 目の前のジャケットを買わなければならないと思うその想いが、僕の後頭部から、首筋にかけてを、一種異様に凝り固まらせていることに気づいていた。その凝りが頭の中に熱を帯びさせて、目の前の景色をもうろうとさせていた。

 

 僕は、冷静になりたかった。

 

「頭にある気を肩へと落としてください」

 

 韓氏意拳講習会の、白い体育館の光景を思い出していた。あの講習会のときと同じく、僕は頭の意識を肩へと落としてみる。

 

 店内が、静かになっている。顔の周りにいつのまにかこびりついていた緊張がすっと抜け落ちて、頭の高ぶりが静まっていく。強迫観念が、何もなかったかのように消えている。

 

 僕は狂わされないまま、そのジャケットのある棚から離れることができた。マフラーのある商品棚で、今の服装に合うものを見つけて、買い物カゴに入れる。手袋のある商品棚へ行って見てみるも、良さそうなものが見当たらず、僕は会計を済ませたあと、素朴な音楽が流れるその店の、稼働している加湿器、布団、タンス、食器、化粧品のそばを通って抜けて、そのまま、近くの服屋へ入る。

 

 その服屋の、手袋のある場所を探すと、数種類の手袋がランダムに積み上げられているのを見つけた。山をかきわけると、なぜか心に引っかかる黒い手袋を見つけた。鏡に映してみれば、今着ている服と思ってもみなかった調和がそこにはあった。僕は店をあとにした。

 

 

 

 

 

 

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