信じたいように信じることが、”情”に繋がる
自分と違う人のことは、自分が信じたいようにしか信じることができないのではないか?
「この人は、こういう人だ」と、強く信じることで、人はその人について『ある態度』で接せられるのではないか?
ぼくの長年患っていた症状は、「人を信じることができない」というものだった。
他人の何気ない対応からぼくへの評価をすぐ悪い方へ勘ぐったり、傷つく恐怖からこちらから素っ気ない態度を取ったり・・・片想いの人にどうしても一歩踏みだすことができなかったり・・・。
真実だと思っていることがある。
『人と人は、わかり合うことなんてできない』
『友情や恋愛感情は、そもそもが勘違いから起こる感情である』
ひねくれ精神から言っているわけではない。
突き詰めて考えていくと、その通りだと気づくのだ。
だが、信じることはできる。
もしそれが勘違いの幻だとしても、そのとき友情や恋愛感情を感じることができたのは、その瞬間において人を信じることができたからだ。
信じた結果、打撃を加えられることもある。
その人をよく見ないで、自分勝手な像を作ってしまったのかもしれない。
あるいは、色んな不運が重なった、しょうがない結果だったのかもしれない。
改善できるところは改善できる。
人を見る精度を高めるため、日々取り組むことはできる。
正しい事実を淡々と見ようとする。
自分の心の安全が害されるかもしれない場面でも、ときには勇気をもって見てみる。
しかし、どうあったとしても、『その人は悪い人間ではなく、良い人間なんだ』と最後まで信じてみる。
もし、「この人は心の優しい人だ」と信じられた人が、悪い言動をしてしまったとする。
その悪い言動は、悪い言動だと思う。
しかしその行為は、その人の心優しさと地続きであるに違いない、どんな事情があるかはよく知らないが、絶対、この人は変わらずきれいな心を持っている―――
暴力行為に走ってしまう不良青年がいた。
その青年を好きになった女性がいた。
女性は「この人は乱暴なことをするけど、本当は心優しい人だ」と感じた。
青年は彼女の前で時折涙を流したりと弱さを見せた。
しかし、なかなか暴力行為をやめることができなかった。
青年から暴力を受けた被害者は、彼を極悪非道で、良心の存在しない、サイコパスの純悪人だと見た。
女性も青年に、数々の黒い感情を抱いた。
そうなることが自然だった。
それくらい彼は、恋人にもひどいことをした。
しかし女性は青年を見続けた。
そして、信じた。
「あなたは、心の優しい人だよ」
青年には、『あなたは心優しい人だよ』と言われた事実が、死ぬまで残り続けた。
「信じ続ければいつか報われる」などと言いたいわけではない。
世界にそんな単純な図式は存在しない。
ぼくが確かに言えることは一つだけ。
誰かに認められた暖かさを、人は一生忘れない。