執筆理念

 

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高度情報化社会の昨今、テレビやネット上でさまざまな意見が飛び交い、テレビやネットを見た人はさまざまな意見に触れます。

社会にはそれぞれに簡単に否定できない根拠をそなえた、さまざまな考えがあります。

そんな考えについて真剣に考えることは良いことです。

しかし人によっては、そうしたことで少しずつ、自分の考えを見失ってしまうようです。

 

なぜでしょうか?

 

狭い社会に渦巻く『情報の混沌』のなか、人々は、他者と交流しています。

物事や考えを「良いか、悪いか」で判定する手法がはびこるなか、否定したり、否定されたり、肯定したり、肯定されたり、肯定したあと否定されたり、否定されたあと否定し返したり・・・色んな体験をすることで、人によってはいつしか、「自分の考えを持とうとするから、生きづらくなってしまう」と感じてしまうかもしれません。それからは、あまり考えないよう努め、そういう、上手くいかないことが『現実』だと思ったりします。

 

周りの流れに沿って生きる。

それは、大切なことですが、それだけでは救われないことだってあります。その人のなかにも流れがあります。自分の流れを大切にしないようにすることで、それはそれで、生きづらさは悪化の一途をたどるでしょう。

 

自分の流れを見失った瞬間、自分だけの考えが消えてしまいます。

その結果、何かストレスを感じることがあっても、抗議できないということになります。そもそも言いたいことが言いにくい環境のなか、言いたいことが言えず、生きづらさを感じても、「そういうものだから、しょうがない」として、自分が少しずつ損なわれることを受け入れつつ、生きることにもなるでしょう。

 

そのとき、生まれたストレスは、社会にすでに用意されている「何となく、自分の流れとは違う気がする流れ」に乗ることで、そのときだけ解消したりします。

 

多くの人がそう生きることで、円滑になることもあれば、救いがたい破滅を呼び起こすことにもなりかねません。

自分とは違う流れが世の中を動かした結果、言いたいことを言えたら防げたかもしれない大惨事につながったことがあります。

 

 

自分の流れを見失ってしまった人が、見失った流れを見出すには、どうすればいいのでしょうか?

 

人は、それぞれ、その人だけの人生を歩んでいます。どの人の人生も、全て違うものです。それぞれが大切であり、願わくば、優先された方が良いものでしょう。

人生のなかで、必ず、理屈で説明できないことが起きます。それは、体感によるものです。なぜか、気に食わないと感じたり、頭に血が上ったり・・・お腹が痛くなったり、涙が出たり、お酒が止まらなくなったり・・・。

 

そこに、自分の流れを見出すヒントがあります。それは、その人が抱える生きづらさの原因であり、その人だけの考えを手繰り寄せるきっかけとなるでしょう。

 

改めてそこを見直してみると、人は、自分の流れに沿った何かを始めることになるでしょう。

 

 

ぼくは、ぼくの文を読んでくださる人に、何の考えも与えたくありません。

すでに色々な考えが出尽くしていると言ってもいい世の中で、新たな考えを提供しても、情報が余計に入り乱れて混乱を引き起こすように思います。

 

今、必要な文章は、強引な洗脳によって読者にある一定の考えを引き出すものではなく、何となく、自分で物事を考えてみたくなるようなきっかけが生まれるものだと思います

 

 

哲学的思考を突きつめてみたり、人と交流したり、気功や韓氏意拳などの武術を始めてみて、ある一定の観念が刷り込まれることによる救いにつくづく、意義を見出せなくなりました。言葉があればどんなことも否定できるし、肯定もできます。考える時間と、ほんの少しのボキャブラリーがあれば、どんな思想だって組み立てることができます。

 

そう考えると・・・文章とは、言葉や考えの集合なので、読んでも意義少ないものと言えるのでは? 文章が、人の生活を上向くために手助けできることは、ほとんどないのでは?・・・と、思ってしまいます。

 

しかし、ぼくはその『ほんの少し』を、人生をとおして追究していきます。

また、ぼくも一つの流れを有した人間ですので、ぼくだけの流れに沿った、ぼくだけの文章も書いていきます。自分の流れを見出すことを、文章をとおして行っているのです。

 

 

とにかく、お互い、自分の生活をより良くするために努力していきましょう。

そのために、ぼくの文章があります。

 

 

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