自分にとって、面白い小説って、何なんだろうと何年も想いを巡らし続けている。
小説家を目指しているくせに、フィクションになかなか興味が持てない。ノンフィクション派かもしれない。作り話に熱くなれないのである。「だって、作り話でしょう?」と、冷めてしまう。
だから、たとえ、作り話だとしても、現実の情報や、材料から寄せ集めて、そこに、作家個人の感性を一匙加えた、ほとんどノンフィクションみたいなフィクションに、最も、熱くなることができる。
東野圭吾の社会派ミステリーとか、太宰治のほぼ自叙伝である『人間失格』とか、ファンタジーではあるけれども、リアリティーのある書き込みがなされている万城目学作品とか・・・。
あるいは、ノンフィクションなんだけれども、小説みたいな感じがするもの。作り話ではないから、ノンフィクションなんだけれども、作り話みたいな話。あるいは、小説みたいに、構成が工夫されている話。自叙伝は総じて好き。
沢木耕太郎『深夜特急』
高木徹『戦争広告代理店』
河合香織『帰りたくない』
代々木忠『マルチエイジ・レボリューション』
デイヴ=ペルザー『Itと呼ばれた子』
自己啓発や新書でも、小説みたいなものがある。
ナポレオン=ヒル『思考は現実化する』
坂口恭平『独立国家のつくりかた』
今、自分がいて、見ている現実も、
中国の古典哲学書『老子』『荘子』
や、
尹雄大(ユンウンデ)『FLOW 韓氏意拳の哲学』
のページをめくっていけばいくほど、
違う様相を醸し出していく。現実にいながら、現実から解放されていく、不思議な啓発を受けることができる。
フィクションの良さは、現実の材料から話を組み立てないといけないノンフィクションと違って、制約がなく、何をやっても自由なことだろう。
だから、その世界に没頭できれば良いのだし、それが楽しいはずなのだから、フィクションのページをめくった後は、あんまり余計なことを考えなければいいのに、ぼくは、
「この展開、いくら何でも不安要素がなさすぎ。幸せすぎないか?」とか、
「いやいや、こんなに光り輝く世界はあり得ないでしょう」みたいに思ってしまう。
(話は少し逸れるが、村上春樹作品もいくつか読んでみて、救われたし、良いなあと思うところも多かったし、感性を養う勉強をさせてもらったけれども、未だに、ある種の修行感覚が拭えない。感性を養うための修行をさせてもらっている感じ)
書いていて気づいたけれども、
ぼくは、現実に居ながら、現実のしがらみから解放されたいと、強く思っている。
フィクション界への一時避難だけでは生ぬるい。
だから、ぼくがやりたいことは、啓発であり、現実を変えるための革命なんだと思う。
常識や、モラルを変えたいわけではない。常識やモラルは大好きだ。出る杭にはなりたくない。
キングコング西野さんやホリエモンみたく、派手な言動で世の中を扇動し、啓発したいわけではない。
むしろ、人々に溶け込みながら、人々に何の抵抗も覚えさせず無意識下に潜り込み、潜在意識の流れに少しずつ電気を当てたい。その方が絶対に面白いし、ガッツが湧く。