石川直樹さんについての考察 その3

 

 

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自分以外のものを、取り入れることができなかった時代は、とても辛かった。

今だって、同じようなものだったのだが………。要するに、自分のそれまで信じてきた偏見を自分の中で突き崩そうとすることが、とても辛かったのだった。

 

自分が、それまで強烈に信じてきていた偏見は、自分の可能性を狭めていたものだったのかもしれないが、同時に、自分をしっかりと保とうとするための、ぼくにとっては、真っ当に社会を生きようとするための、生命線だったのだ。

 

自分の可能性を狭めていたことが、これまで、自分を助けてくれていたのだった。そこから自由になろうとすることは、明らかに、強烈な苦痛を伴うことだったし、自由になってみたところで、それはそれなりに、その後も自分が傷ついてしまうそれからの出来事が、待ち構えていたのかもしれなかった。

 

新たな発見は、自分自身の中にあるのかもしれなかった。

しかし、自分の中から新たな何かを発見していくためには、自分の外からの刺激を、受けなければならなかったのではなかっただろうか?

 

それは、偏見を解除していくための、手痛い通過儀礼だったのかもしれなかった。

 

 

『髪』は、石川直樹さんによる写真集だ。グリーンランドにある氷河も映っていなければ、樺太の人々の日常生活の一場面の一瞬が切り取られているわけでもなくって、ただただ、石川さんがとても印象的だと思ったという、とあるモデルの女性の[髪]が、様々なシチュエーションや、撮り方によって、ただただ、撮影されているといったものだ。

 

このような写真集が出版されているところから見ても、石川さんがただの冒険家、ここではないどこかへ出向いて写真を撮ってただ帰ってくる人間ではないということが、わかってくるのではないだろうか。

 

何せ、女性の髪の毛が主題なのである。それも、たとえばイヌイットの人の髪の毛だったり、沖縄に住むシャーマンであるお婆ちゃんの、生涯の風雪に耐え抜いた歴戦のチリチリとなった白髪とか、そういうものを映しているのならば、冒険家だと時に称される石川直樹さんのブランドに適っているというか、まあ、そういうものだろうなあと思ったりするのだが、そうではないわけである。被写体は、我々としても思いっきり身近な、[日本人女性]なのだ。

 

 

 

  大分県の国東半島で、とある女性モデルを撮影するという仕事を引き受けたことが発端だった。こんなことを言っていいものか迷うが、ぼくはその女性に初めて出会ったとき、容姿や立ち居振る舞いにではなく、彼女の髪の毛が気になって仕方なかった。真っ黒な長い髪で、時々髪の毛のなかに顔が隠れてしまうほどのボリュームがあった。

 

 彼女自身、自分の髪にはおそらく愛着を持っている。というのも、彼女は美容師免許をもっており、そういう業界に就職したわけではなかったものの、美容師で手伝いなどをしていた経験があったからだ。

 

 最初に近くでまじまじと彼女の髪を見つめたのは、自動車の車内だった。無防備なことに、彼女は乗り物に乗ると途端に眠ってしまう。車のなかでも電車のなかでも、移動がはじまるやいなや、すぐに寝る。

 

 寝ると、髪が顔にかぶさって表情が見えなくなる。「なんだこれは・・・」と思いながら最初の一枚を撮影したそのときから、彼女の容姿を撮ることができなくなり、以後、ぼくは彼女の髪を執拗に凝視することになった。

 

 そんな出会いがきっかけで、今度は迷うことなく髪の毛を撮らせてもらおうと、たびたび彼女を国東半島に連れ出しては、撮影させてもらった。髪しか撮られないというのは彼女にとって嬉しくなかったかもしれない。が、ぼくは興味のあるものしか撮れないし、自分が反応したものでなければシャッターを切れないのだから仕方ない。

 

 そうやって撮影を続けた末に、この本が生まれた。言うまでもなく、ヒマラヤの高峰を望むように、あるいは島々の渚から彼方を眺めるのと同じ気持ちで、ぼくは彼女を見ていた。未知の森への入口は、ここではないどこかではなく、すぐそこに口を開けている。本当に、そう思うのだ。

 

引用:石川直樹 髪

 

 

 

『誰が見ても正しい在り方』なんて、どこにも、存在しない。

それならば、自分のことを知ろうとするための、辛く険しい道のりを辿ろうとする、この、生きるためのロマンスが、どうして、否定されて良いことなのだろうか……………?

 

 

自分が何者であるかなんて、誰も、教えてくれはしない。

石川直樹さんだって、石川直樹さんの読者に対して、『あなたは、こういう人間なのですよ』と、教えてくれるわけではない。

なぜなら、そんなことが出来るわけないということを、彼は、意識的か、無意識的かは分からないが、それを、熟知しているはずだからだ。

だから、彼は、彼自身の辿った道のりを、ただただ、提示していくだけなのではないだろうか?

 

 

自分を探し当てようとしているから、自分の中へ飛び込んだり、自分の外へ飛び込んだりしながら、自他の混沌へと、身をかき分けて、進もうとしてしまうのだろう。

そうして、それは、非常に正しい姿なのだと、今は、完全にしっかりと、断定することができた。

 

 

自分の中にある、それまでの自分が知らなかった、新たな「初めまして」の自分自身を、いかに、捜索し続けようとする努力は、自分の中にある、それまでの自分自身を無意識のうちに規定していた『偏った世界観』に対して、安住しようとしていない人間のみが辿ることのできる、自分以外の世界に対して非常に『誠実』な在り方なのだと、今では、心の底から、そう、断言することができた。

 

 

自分の外にある、自分にとって未開拓の地へ、もし、旅立とうとするためには、知識や、経験や、心身の育ちがもう少しな場合だとすれば、やはり、まずは、自分の中にある未開拓地を、捜索していく以外には、手段が、ないはずだろう。

 

自分の中にある未知を捜しに旅立つのだから、それは、周りの人たちからしてみれば、ただの、『独りで、勝手にやっている、根暗な自問自答の風景』でしか、ないのかもしれない。

だから、そうしていることに対して、周りから、自分のことを慮られないことによる揶揄を、受けてしまうことだって、あるのだろうか。

 

 

あるのかもしれない。

 

あるのかもしれない。

 

あることが、当然なのかもしれない。

 

 

それでも、ぼくは、自分の中で、周りとの触れ合いからは直接関係のないところへ今のところ存在している、今のところは関係のないところへ存在せざるをえない、そんな、禅問答を気が済むまで、自分にとって腑に落ちる、自分だけのスタンスが体に染み込んでいくまで、つまりは、【死ぬまで】、行い続けることでしか、ぼくは、存在することができないのだ。

 

できないのだから、今のところは、しょうがないのだ。

 

 

しかし、ぼくは、自分だけが豊かになるために、自分だけの冒険をするつもりはない。

 

安心していただきたい。

 

そうして、出来れば、放っておいてくれ。

 

 

 

いつしか、勝手に、――――――――そう、時期が来れば――――――――いつの間にか、自分以外のどこかを冒険するようになっていた、ぼくの姿に、気づいてくれるときが来るはずだから。

 

 

 

それではこの辺で。

乱文、失礼。