殺意

 

自分の手で稼いだお金で、今までひと月として自活できたことがない甲斐性なしのクセに、これまで、18から始めた一人暮らし期間の中で、計3回も引越しを経験している、ある意味ベテランなぼくだ。

 

生家は千葉県の市川市で、それから八王子、西荻窪、相模原と転々としている。

自分の好きではない自分として過ごしてきた土地からは、なるべく、逃れたいと思っている。転地療法である。住処の家賃はことごとく3万円以下だった。今の家が最安で、月々2万4千円であると伝えると、周りからは大抵「事故物件ではないか?」と心配される。たぶん、大丈夫である。

 

そろそろ貯金も切れるので、ボロアパートから引っ越したい気持ちも山々なのだが、引っ越せない。しかし、だんだん、嫌いな自分ではなくなっているので、大丈夫である。

 

時折、どうしてこんな地獄の最中で、生きているのだろうかと考えてしまう。果たして、こんな地獄の中で、生きている必要なんて、あるのだろうか。

自死をする気持ちはなく、行く末に最期を任せる所存だが、どうしようもないくらいに、地の底まで落ちてしまうことだってある。

 

秋葉原通り魔事件や、新幹線殺傷事件の犯人の人相を見ると、自分と似た匂いを感じる。

 

今ならば、やりたくないことをやらないようにして、やりたいことである小説を書くことだけを考えながら生きられているから、魂なるものが満たされていって、自分を過去に傷つけたあの人たちを殺そうとは、さすがに思わなくなっている。

 

しかし、調子の悪いときは、こんな今でも、どうしようもないほどの殺意が湧いてくるから、ただ、実際に晴らすわけにはいかない感情なので、ここは意地でも文章に変えて、自らの将来への糧にさせていただく。

 

何だか物騒なことを書いているが、もう、文章で吐き出すしか方法がないのだから、勘弁していただく。

 

自他を責めることには、もう、飽きが来ている。そうしたところで、どうせ、長い目で見れば、危害を被るのは自分だ。

たとえ、こちら側に本当は正当性があるときだって、あまりにも現実は無情なのだ。

 

だから、テロリストにならないために、小説を書いている。

誰かを殺さないため、自分を社会的に殺されないようにするため。

ぼくのような犯罪者予備軍に、実際に、犯罪を起こさせないように することで、何の罪もない無関係な人たちを不条理に傷つけてしまうような事態とならないがために、好きなことを 法律に抵触しない範囲内で好きなように行うことで生きられる保険を、社会がしっかりと掛けてくれるような世の中となってほしい。

ぼくに小説を書かせてくれたら、そういう社会を実現させるための一助となれるよう、活躍していけるよう物事を考えておくのに。

 

18のときから、18年間の生涯で、培っていかざるを得なかった、今まで会った人たちの中でも、特定の十数人へと向けられた、とびっきりの殺意を、減らそう、減らそうとして生きてきた。

結論から書くと、どうやったって、根絶することは無謀な挑戦だった。ただ、「まあ、殺さないようにして生きようかなあ」とは、思えていった。良かった。

「どうして、奴らが殺されないままのこの世の中を、生きなければならないのだ!」なんていう、やり切れない感情ではなくなっていったから、5年間も、小説を書かせてくれた周りのおかげだ。今後も、「小説を書くな」と言う人とは付き合わないので、小説を書くことは止めないだろう。

 

たとえどんな理由があったところで、殺意をたぎらせている人間の近くに、あまり寄りたくないと思ってしまうのが人情なのかもしれない。

だから、こんな記事を書くような人間に、あまり、読者は近寄りたくないと思うものではないだろうか。

 

だが、もう、しょうがない話なのだ。

書かなければ、自分の人生を、もはや、肯定できないのだから。

逆に言えば、殺意を抱いていることを書くことができれば、だんだん、自分の人生を、肯定できるようになっていくということなのだ。

 

そうやって、自分の殺意を肯定することで、だんだんと、寂しくならないような感情のコントロール力が、付いていくのではないだろうか。そんな気がする。間違いではないだろう。

 

寂しくなるから、誰かを殺したくなるほど他者を恨むマインドセットとなる。

 

殺意の増加するサイクルから脱するためには、殺意を肯定するだけではなく、運動をしたり、瞑想して自分の内面を見つめたりと、色んなことが役立つ。

 

ぼくの書く文章も、役立てたら良いなあ、と思う、今日、この頃。