空気を読む疲弊に絞られてしまって……………

いつも、自分の実力における120%周りに気を遣ってたからかなあ。

そうして、昨日の自分よりも優しくなろう、優しくなろうとしていたからなのだろうか、疲れてしまった。

何というか、必要な行為だったと思うし、もう優しくしないようにしようと思っているわけではないのだけれども。とにかく今は休もう。

 

上から目線とか、下から目線とか、そんなことは形式的な話で、優しいか否かについては、露ほども、関係がないような気がするのだけれども。

それでも、個人的に交流してみたかった人たちは、上から目線を嫌った。その人たちに合わせてみようと思った。何度も鬱に陥った。どうやら、今はようやく、その人たちの文脈で交流できてきているような気がしないでもないのだけれども………………

 

もう、疲れたよ………………。

 

どうしてこんなに自分から頑張ってみなければならなかったのだろう。まあ、そうしないと、社会から『気遣い』であると認められている "うわっつらKINDNESS" を習得できなかったし、しかし、案外、うわっつら〜がバカにならないくらい重要なことだとも、知ることができなかった。

 

どうしておれは、こんなにもスタートラインが周りと比べてとても後ろの方であって、そうして、こういうことをおれが言ったら、どうして、周りは「そうだね」とうなづくのだろうか。

どうしてその人たちは、自分の意見を語らない処世術を、語るそれより上であると当然のように判断しているのだろうか。疲れたよ…。

 

どうして、おれは、うわっつらKINDNESSが (気遣いの一つの種類であることは本当ではあるけれども) 他におけるたとえば下町のぶっきらぼうな一見毒にまみれて危険そうなコミュニケーション等々と比べても『至上』であると勘違いしている人たちの傷を請け負って、疲弊しなければならなかったのだろうか?

 

自分のことしか考えてこなかったわけではない。常に、どうして、自分が、クラスで孤立してしまうのかとか、そういうことばかり、気に病んで生きてきた。

だから、他者と、仲良くなっていきたかった。

それゆえ、優しくしたい心はあった。

でも、どうして………………。

どうして、"作法" をぼくに教えてくれなかったんだ…

 

ぼくが知りたかったのは、どうすれば、 "他者の心を気にすることができている人間である" と、周りから、正当に判断されるかどうかだった。

そのために必要となるはずの、対人関係における間合いの取り方や、姿勢の取り方が、知りたかった。

また、自分の心をしっかりと提示するため、おそらくそれまでは繋がっていなかった心と体を、少しずつ、繋いでいくことが、きっと、重要だった。

 

どうして、自分のことしか考えてないと、勘違いされなければ…………。

 

対話しなければ、他者のことは深く理解することができないとして、ぼくは、理解したくてしたくてしょうがなかった人たちと対話したかったのにも関わらず、対話をする段階にすら至ることができずに門前払いされ続けて、途方もなく傷ついてしまった期間があったことは確かだった。

 

愚痴くらい吐かせてよ…………………。