アートなブログとポップなブログ

 

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ブログを始めたのが、2015年12月。

あれから約2年半が経つのか………感慨深い…………

 

PVが少なすぎる。

 

2年半で2万400回しか見られていないのである。

ふつう、人気ブログなら1ヶ月で10万PVくらい行っているものなのに、こちらとら2年半で2万PVである。

1ヶ月ごとの平均値を出すことはやめておきます。怖すぎる。

 

どうなってPVを伸ばすのだろう?

とりあえずお金を払ってブログを "PRO" というやつにしてみた。なんか、無料で使っているよりも色々とオプションが付くみたいである。

 "PRO" にするとTwitterをブログに貼り付けられるというので、最近始めたTwitterを貼り付けてみた。

多くの人に読んでいただけるよう、少しずつ、がんばっていくつもりである。

 

どうして、PV数が伸びないのだろう。

原因なんて腐るほど出てくるので、書き出すことは止めておく。だいたい、人気ブログにするにしては、記事で『言わんとしていること』が難解すぎである。楽しいブログになりにくいでしょう。おもしろいやつ書いていこうよお、何も考えずに、笑い飛ばせるようなさあ。

 

最近、電気グルーヴにハマっている。

『DRAGON』というアルバムがあまりにも良くって、バイトの人々に、事あるごとに聴くことを勧めている。

 

そんな厚かましいぼくの態度を突っぱねもせず、むしろ「聴いてみます」と返答してくれたあと、三週間後に本当に聴いてきてくれた大学生N君がいた。

 

「どうだった?」

感想を聞いてみた。

 

「いやあ・・・芸術っすね」

 

芸術。アート。art……………この言葉が指すのは、とどのつまり、「よくわからない」という意味である。

ダリとか、ピカソとか、岡本太郎的な、アートに精通していない鑑賞者をして、「私なんかのような凡人には、これらの作品の素晴らしさは解し得ません」という、謙遜というか、遠回しに皮肉られるパターンのやつである。

 

しかし、電気グルーヴが上のアーティストのような敷居の高い存在かといえば、決して、そんなことはないと思う。

なんといっても、有名である。で、けっこう人気である。ダリとかピカソとか岡本太郎も有名で人気ではあるけれども、そういうのとは少し違う。すっごくザックリ言うと、『凡人でもわかる』域のものだと思う。N君も、DRAGONというアルバムの名前は知らないけれども、電気グルーヴという名前は聞いたことあると言っていた。

 

電気グルーヴは、いわゆる『アート』ではなく、『ポップ』な、大衆に開かれている側に属している音楽だと思う (←こーゆー言い方がそもそもアートっぽい)。

 

でも、N君は、DRAGONの中でも最後の曲である『虹』(ぼくが強く推していた)を聴いてくれたらしいのだが、

「いつまでも歌が始まらなかった・・・」

と、10分のうちの最初の4分くらいメロディーが続く曲構成に戸惑っていたみたいだった。

 

N君はGReeeeNが好きである。

GReeeeNに限らず、その頃に流行った曲は、基本的に『曲が始まって10数秒くらいで歌詞が入る』曲構成だ。

ぼくもGReeeeNは好きで、中学生のときに『愛唄』や『キセキ』が流行った、直撃世代だから、そんな構成の曲こそがポップだということが、肌感覚でわかる。

 

しかし、たとえば電気グルーヴが流行った1990年代に青春を過ごした人々からすれば、それは、ちょっと違うかもしれない。

いや、『曲が始まって10数秒くらいで歌詞が入る歌』が人気だったことはあまり変わらないかもしれないが、何というか、少しずつ違うのだろう。だって、小室哲哉さんの曲が音楽業界を席巻していた時代でしょう?  多くの人々が、ディスコに行って、夜な夜なダンスを踊っていたのではないでしょうか?

そんな人たちが求めていたメロディーは、GReeeeN世代の爽やかクリーンなメロディーとはだいぶ違うはずだ。

 

むしろその人たちからしてみれば、eが四つも連なるようなアーティスト名こそが「芸術だねえ」って話じゃないか?  わからないけれども。

 

商品の収まっている倉庫の中で、こういう話をN君としていた。

「N君はね、期待しているんだよ」

ぼくは偉そうに言った。

「期待って、何にですか?」

「つまり、前奏が始まったらすぐに歌が入る曲が、いわゆる人気な曲の中には多いでしょう? 当然、GReeeeNだってそうだ。だから『虹』(電気グルーヴ)を再生したときも、N君は無意識にすぐ歌が入るのを期待していた。でも、まだ来ない、まだ来ない、まだ来ない・・・・・で、4分も経ってしまった。『何だこれ?  つまらん!』そう思ってしまったんじゃないかなあ?」

 

そう言うと、N君は若干苦渋を秘めた表情となって、しかし、「うん・・・たしかに、そうっすね。そうっすね。はい」と、何度かうなずいた。

 

これは、だいぶN君の忍耐心に寄りかかったコミュニケーションだと思った。これでは、いくら(ある意味では)正しいことばかりをこちらが言っていても、結局、歩み寄ってくれる2割の人を屈服させるような、こちらが気持ちよくなるようなことしか言えなくって、歩み寄ってくれない8割の人々をこちらへと巻き込めない、味方の増えないパターンだと思った。

 

いや、電気グルーヴはもう日本を飛び越えて世界にファン層を増やしており、揺るぎない人気と実力を築いているから、ぼくがファンの勧誘に失敗しようが痛くもかゆくもないはずなので良いのである。

ぼくが心配するまでもない。

 

ぼくが心配しなくてはならないのは、2年半で2万PVのこちらの身の上である。

人気が出なかったら食えない。問題はそこである。

 

バイトなんてしたくないので、7年ほど修行してきた文章で、そろそろ世の中へと羽ばたいていかなければならないのである。

 

で、5月に入ってからブログをやたらと更新しているのは、そのためである。

歪ながらも、『自分の文章』というやつが、それまでのように時間をかけずとも、書けるようになってきた。

仕事内容に合わせて内容の濃度や執筆速度をカスタマイズできるよう、色々と試行錯誤の道中である。

 

ただ、ただただ『自分の文章』っていうアレを書いたところで、

「いやあ、アートだねえ」

と見下されながら見上げられるだけである。

 

一応、ポップな作品をたくさん書いて、愛されたい願望があるのでポップな作品を作り出せるようになっていこうと思っています。

 

ポップな人のことを学ぼうと、星野源さんの『よみがえる変態』を読んで、素晴らしいほどに、ポップとアートの漸近線を走っているようなその内容に、この人だな、と思ったりもするのだが、いくら、他者のお仕事に『素直に感嘆できる俺』を演じたところで、何にもならない事実があって、結局のところ、試され続けるは我が人間力……………。

 

 

BUMP OF CHICKENによる弊害

 

 

BUMP OF CHICKENは、リスナーに、生きる力を、呼び起こし過ぎてしまうのだ……………。

 

BUMP OF CHICKENは、 "今のまま" 、リスナーが、そのまま生きるための燃料を、補給してしまうのだった……………。

 

たとえば、もし、リスナーが虚勢を張っていたとしても、その虚勢のせいで、そのリスナーが、BUMP OF CHICKENの濃く深く力強い楽曲群を定期的に聴かなければ、生き延びられない状態となっていたとして、それは、つまるところ、BUMP OF CHICKENを聴くことができたら、そのリスナーは、自らを生きづらくさせている虚勢を手放さないまま、生きることができるのだった……………。

 

BUMP OF CHICKENほどの、一見、隙が見えないほどに、一曲一曲が完成されたアーティストの作品にも、そのような弱点が、あったのだった…………………。

 

もちろん、恨むべきは、BUMP OF CHICKENではない。

 

BUMP OF CHICKENの楽曲群が施してくれる "救い" によって、自らの弱さを、覆いつくして見えなくさせてしまった、その人自身の処世術を見直す必要がある。

 

それほどまで、見ることができなかった "弱さ" なのだから、それを真っ向から見つめて生きようとすれば、そうとう、生活サイクルが破壊されてしまうかもしれない。

 

一刻も早く、死にたいと願う瞬間が、出てくるかもしれない。

 

そんなときに、BUMP OF CHICKENは、再び、力になってくれるだろう。

 

そうして、リスナーは改めて、BUMP OF CHICKENがどれだけ裾野の広いメッセージを込めて音楽を音源に込めていたのかを、思い知ることができるだろう。

 

そうだ。

 

BUMP OF CHICKENの楽曲の強度は、こんなものでは済まなかったのだった……………。

 

デトックス

 

良い小説を書けるようになるために、とにもかくにも、自分の中にあるものを吐き出し続ける毎日を送っている。

 

暇人だから、やれることなのだろうか?

 

もし、『自分の中にあるものを吐き出し続ける毎日を送っている』人を、暇人であると批判する人がいるとすれば……………、

 

その人は、たぶん、『そうしたいのにできなかった』日々を、これまで送らざるを得なかったのだろうし、そして、これからも、そうなのかもしれない。

 

そんな人たちを変革することが、暇人たる、ぼくの役割なのだろう。

 

 

暇になれるならば、なってみやがれ。

 

暇になれる勇気を、持ってみやがれ。

 

 

世界は、あなたが思っている以上に、『自分のワガママに正直であることに寛容な』人々が存在して、そして、そういう人たちが、社会を円滑に回すために、大いに一役買っていることに、いつか、身をもって気づいてみやがれ。

 

【精神的にも、物質的にも、余裕のある、豊かな暮らし】

 

それを、ただ、何となく思い描くことは、誰だってできるが、そんな夢物語を『本当に』営む勇気があるのだろうか?

 

そうできるくらいに、自分や、周りに対して繊細になってみやがれ。

 

周囲を俯瞰で見る能力を持ちながら、決して、何事も他人事として取り合おうとしないで、自分の尽くしたい相手に、本当に尽くそうとする勇気を持ってみやがれ。

 

勢いだけでは終わらずに、いかに、自分ができることと、できないことを腑分けしながら、日々、行いを反省してみやがれ。

 

打ちしがれて夜には死んで、そうして、朝には生まれ変わってみやがれ。

 

自ずから毎日を瑞々しくさせる新陳代謝のサイクルを、もし一生、本当に、保てるものなら、ぼくは、批判したりしないから、是非とも、本気で、保とうとしてみやがれ!!!!!

 

 

 

自我の強い人

 

自他を強いて生きている人は、時に、自我が強そうに見える。

 

「自主的に動くことができる」と評される人は、社会からの指示に、従おうとして、動くことができる人だと思う。

 

窮屈そうに見える時点で、動物としての自我を、その人は、否定して生きている。

 

社会が悪いのだ。

 

その人も、周りの人も、誰も、悪くない。

 

 

 

殺意

 

自分の手で稼いだお金で、今までひと月として自活できたことがない甲斐性なしのクセに、これまで、18から始めた一人暮らし期間の中で、計3回も引越しを経験している、ある意味ベテランなぼくだ。

 

生家は千葉県の市川市で、それから八王子、西荻窪、相模原と転々としている。

自分の好きではない自分として過ごしてきた土地からは、なるべく、逃れたいと思っている。転地療法である。住処の家賃はことごとく3万円以下だった。今の家が最安で、月々2万4千円であると伝えると、周りからは大抵「事故物件ではないか?」と心配される。たぶん、大丈夫である。

 

そろそろ貯金も切れるので、ボロアパートから引っ越したい気持ちも山々なのだが、引っ越せない。しかし、だんだん、嫌いな自分ではなくなっているので、大丈夫である。

 

時折、どうしてこんな地獄の最中で、生きているのだろうかと考えてしまう。果たして、こんな地獄の中で、生きている必要なんて、あるのだろうか。

自死をする気持ちはなく、行く末に最期を任せる所存だが、どうしようもないくらいに、地の底まで落ちてしまうことだってある。

 

秋葉原通り魔事件や、新幹線殺傷事件の犯人の人相を見ると、自分と似た匂いを感じる。

 

今ならば、やりたくないことをやらないようにして、やりたいことである小説を書くことだけを考えながら生きられているから、魂なるものが満たされていって、自分を過去に傷つけたあの人たちを殺そうとは、さすがに思わなくなっている。

 

しかし、調子の悪いときは、こんな今でも、どうしようもないほどの殺意が湧いてくるから、ただ、実際に晴らすわけにはいかない感情なので、ここは意地でも文章に変えて、自らの将来への糧にさせていただく。

 

何だか物騒なことを書いているが、もう、文章で吐き出すしか方法がないのだから、勘弁していただく。

 

自他を責めることには、もう、飽きが来ている。そうしたところで、どうせ、長い目で見れば、危害を被るのは自分だ。

たとえ、こちら側に本当は正当性があるときだって、あまりにも現実は無情なのだ。

 

だから、テロリストにならないために、小説を書いている。

誰かを殺さないため、自分を社会的に殺されないようにするため。

ぼくのような犯罪者予備軍に、実際に、犯罪を起こさせないように することで、何の罪もない無関係な人たちを不条理に傷つけてしまうような事態とならないがために、好きなことを 法律に抵触しない範囲内で好きなように行うことで生きられる保険を、社会がしっかりと掛けてくれるような世の中となってほしい。

ぼくに小説を書かせてくれたら、そういう社会を実現させるための一助となれるよう、活躍していけるよう物事を考えておくのに。

 

18のときから、18年間の生涯で、培っていかざるを得なかった、今まで会った人たちの中でも、特定の十数人へと向けられた、とびっきりの殺意を、減らそう、減らそうとして生きてきた。

結論から書くと、どうやったって、根絶することは無謀な挑戦だった。ただ、「まあ、殺さないようにして生きようかなあ」とは、思えていった。良かった。

「どうして、奴らが殺されないままのこの世の中を、生きなければならないのだ!」なんていう、やり切れない感情ではなくなっていったから、5年間も、小説を書かせてくれた周りのおかげだ。今後も、「小説を書くな」と言う人とは付き合わないので、小説を書くことは止めないだろう。

 

たとえどんな理由があったところで、殺意をたぎらせている人間の近くに、あまり寄りたくないと思ってしまうのが人情なのかもしれない。

だから、こんな記事を書くような人間に、あまり、読者は近寄りたくないと思うものではないだろうか。

 

だが、もう、しょうがない話なのだ。

書かなければ、自分の人生を、もはや、肯定できないのだから。

逆に言えば、殺意を抱いていることを書くことができれば、だんだん、自分の人生を、肯定できるようになっていくということなのだ。

 

そうやって、自分の殺意を肯定することで、だんだんと、寂しくならないような感情のコントロール力が、付いていくのではないだろうか。そんな気がする。間違いではないだろう。

 

寂しくなるから、誰かを殺したくなるほど他者を恨むマインドセットとなる。

 

殺意の増加するサイクルから脱するためには、殺意を肯定するだけではなく、運動をしたり、瞑想して自分の内面を見つめたりと、色んなことが役立つ。

 

ぼくの書く文章も、役立てたら良いなあ、と思う、今日、この頃。

 

 

無印良品の理想、『素手時然』

 

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既に世の中にあり、人々のより良い「生」と「くらし」への思いを伝える約150の文章と、約100点の図版をあつめた書籍『素手時然』は、言葉と写真によるイメージの触発と連繋によって、読者の想像力の飛躍を誘うべく編集されています。

書籍「素手時然」発行のお知らせ | ニュースリリース | 株式会社 良品計画

 

 

 

読む人に、日々の生活に溢れている『当たり前の一瞬』を見つめなおし、問いなおすきっかけを与えて、より、丁寧な佇まいで生活できるよう導いてくれる本です。

 

そこに、読む人へ何かを強制するような言葉はありません。

 

詰まっているのは、シンプルな言葉ばかり。
それと、どこか心に引っかかる写真を組み合わせて、読めば読むほど、何だか、素朴な感慨が心に残ります。

 

無印良品の理念を表している本……ではありますが、いわゆる企業本の枠を超えている、普遍的な内容です。

 

ぼくは生活の指標の一つとして、この本をいつも枕元に置いています。

 

ふとしたときに、この本をおもむろに手に取って、何も考えずにページをめくります。
そこに、たまたま載っていた言葉や写真をながめてみることが、日々の楽しみです。

 

この本を買うことで、すぐにあなたの生活が変わる……………というわけではないと思いますが、一年後、二年後に、何かが動き出すのではないでしょうか?

 

 

自信

 

 

自分のことを、叩き上げの人間だと思っている。

 

小説を書いている。ほとんど、完成されていない。だから、本当に小説を書いているのかを、よく、疑われることがある。

 

小説は、書いている。

『小説を書いています』とアピールするために、書いているわけではない。

書いた小説を投稿して、選ばれるかなあ、どうかなあと一喜一憂しようとして、書いているわけでもない。

デビュー方法など、知らない。小説を、書いている。小説を書いている理由は、決して、小説を書こうとしているからではなく、誰からも認められなくても生きることができる自分へと追い詰めていくために、書いていたような気がする。

 

おれは、もう、どこからも自信を得ることができない。

仮初めの自信ばかりが、これまでのおれを、覆っていたのだった。

学歴、義務をしっかりとこなした後に与えられるご褒美、『周りの人間よりも、自分の方が、高貴な物事をよく弁えている』という勘違い・・・・・・

 

いかに、そんなものから抜け出すかどうかを、小説を書くなどという意味不明な行為で、達成しようとしていたように思う。

小説を書くことは、誰からも、求められていない。こちらも、小説を書くという行為を、ほとんど、認められないのである。

 

自己実現なんてものを求めて、小説を書こうとなんてしていない。

「夢を叶えろよ!」と、おれが小説を書いていることを知った人が、そう、声をかけてくれたりする。

 

信じてくれ!!!!!!!!!!!!!!!

 

おれは、一度だって、夢を追いかけようとしたことなどない。

いつだって、おれの関心事は、現実社会である。

決して、おれの『小説を書くという行為』を、地に足浮いた作業などと思わないでくれ。ブッダへの冒涜に当たる。老子、荘子、王向斉への、侮辱に値するのである。

 

おれは、夢を見ようと思ったことなど一度もない。

現実を、叶えようとしかしていない。

小説は、現実を叶えるための手段なのである。おれにとって、夢だって、叶える対象でなく、手段なのである。

 

具体的なことのみしか書きたくない。

ただし、ここでも、勘違いなどして欲しくないのだが、FACT、誰かと自分を比べて自分の方が上だ下だと比べる作業に代表される背比べ、「君は、君のままでいいんだよ」という言葉に代表される根拠のない慰め・・・・・・・・・・全て、幻想である。

 

具体的なものでも、何でもなく、それらの幻想に当てられたところで、長い目で見ると、自信を養う機会を奪われ、痩せ細るのみである。

 

自信は与えられるものでも、捏造できるものでもなく、知らぬ間に湧き出ているものである。

 

 

Mustという概念

「Mustという概念は、人を生き物として不自然にさせるんだ!」

 

と言って、自らに「しなければならない」を強いてくる勢力にいかに対抗していくかどうかを念頭において、日々を過ごしてきたのだが、

 

何というか、最近は『Mustという概念』がかなりどうでもよくなってきた。

 

自他を規制させる系の努力が、かなりメンドくさくなってきた。

 

で、

 

「しようぜ!」「しなければ!」

の努力のぶつかり合いの、切れ目の谷の底に行くと、深い表現っつーもんがあるみたいだぞ。

 

ちょっと、君も行ってみて?

 

 

 

 

石川直樹さんという人物の才能についての、愚かな嫉妬を交えた愚かな考察………………。

 

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石川直樹さんという人物の才能について、いつも、考え込んでいます。

 

23歳にして、世界の六大陸の最高峰に登頂。


それより以前に、『Pole to Pole』というプロジェクトに参加して、北極から南極まで人力で移動してしまったのだという、その、行動力に加えて、たぶん、素晴らしい身体能力と、忍び耐えられる落ちつき。 『Pole to Pole』はさまざまな国からの参加者がある中での団体行動だし、世界の危険な山へ登るには、現地の公的機関での手続きが必要だったりする、、、、つまり、石川直樹さんは英語も堪能なわけです。

 

体を動かすことのできるだけの人かと思えば、東京芸大の院を卒業した写真家、エッセイスト、民俗学に詳しく、それらの全てがないまぜになって、彼の独特な活動へと、その全てにおいて、ある種の一貫性が通底する。

 

この写真に写っている『最後の冒険家』という作品は、彼が神田道夫という気球界のエキスパートであるアマチュア冒険家の人と共に、太平洋を気球によって横断しようという無茶な冒険を行なって、そして、墜落して、海の真っ只中で死にそうな想いをしたエピソードが、何とも克明に語られていた。よくも、数々の冒険をこなしながら、こんな冷静な分析を可能とする思考力、文章力を鍛えたなあと思う。

 

ちなみに、『最後の冒険家』はノンフィクションとして素晴らしい申し分ない出来なので、開高健ノンフィクション賞をもらっています。

 

『全ての装備を知恵に置き換えること』というエッセイ集では、彼が中学生の頃、映画の影響を受けて海へ深く潜ることに執心して、独学でヨガなどに通ずる呼吸法を学んで、川下りに興味を覚えてカヌーの第一人者の人へ会いに行ったり・・・・・と、さまざまなことを自分から行なっていることがわかります。

 

高校時代にインド旅行を一人で行ってからは、価値観がそもそも崩壊してしまったようです。学校の束縛を屁とも感じなくなったとか。

 

もともと器用な人なのかはわからない。

 

しかし、なかなかここまで、やりたいことに向かってどんどん進めるものではないのではないでしょうか。

 

しかも、いかにも自分のやりたいことだけしかやらないで、いい年になっても遊び呆けてる・・・・・というタイプでは全くなく、むしろ、一つ一つに責任を背に抱えながら黙々と自分との会話を続け、旅の記録を写真に収めつつ、感じたことを豊かな学術的知見も交えて淡々と形容詞を省いた『事実』として書こうとする。

 

そして、それらの試みがかなり成功している。

 

夢を追って生きている人なのかもしれないが、夢を追おうと足を地面から浮かそうと漠然とした取り組みをし続けるのでは全くなくって、夢にまで続く、『たしかな現実』を常に見据えながら、淡々と歩いている、、、 そんな、印象があります。

 

自分のことを書くと、ぼくも石川直樹さんのように、世界中の大自然へと触れたい、最高峰を踏破したい、インドネシアで古来から続く伝統航海術の口伝を、現地の人から聞こうとするようなあらゆるしがらみを超えた他者との魂の交流をしたい・・・・・そして、彼のようにそれらの経験で得た知見を、文章などの形で世の中の人へと共有しようと思うし、それらを実現するために必要な技術を習得するバイタリティーは、責任感は、持ち合わせているつもりだ。

しかし、それがとても無理だということが、理屈ではなく、怖気付いているわけでもなく、ごく自然と納得している・・・・・悔しくも思うのですが、そうなのです。

 

ぼくも、石川直樹さんに負けず劣らずーーーーーいや、言わせて頂くならば、むしろ凌駕するほどではないかーーーーーーと思うほど、、、内向的な素質を持っていると自負しているのだが、ぼくの場合は、まず、自分の中から出られないまま、他人に挨拶するのだって、「声が小さくて聞こえない」と注意されるほどだし、彼のように、自分との会話を続けながら海へ素潜りをしたり、単独でアラスカの川を、1ヶ月もかけて下ったりなんてできないわけだ。

 

彼は、黙々と自分の中に潜ったまま、自分の外との交流を、すごく高いレベルで行えるのだろう。


訓練抜きに、そんなことができるようになったわけではないだろう。
しかし、たぶんぼくと彼とでは、訓練する前から、そもそものスタートラインにおいて、彼が良い位置にいたのだろう。

 

この、 "そもそも" 、 "もともと" の部分における、彼とぼくとの差に、ぼくは、興味があるわけである。

表現は手作業

自分が小物だなあと思うのは、何だかんだ言いつつ、半径5メートル以内にいる人々に向けてしか、うまく物事を書くことができないこと。

 

一応、多くの人に当てはまりそうな言葉遣いを選んでいるつもりではあるが、理解しようとしてくれる人にしか理解されない内容であること。

 

文体作りがまだ途上なのと、人間として未熟なのと、両方。
どうも、これは再三に渡って書き続けることでしか、加えて生き続けることでしか、解消されない問題であることだけは、理解しているつもり。


書くしかない。


未知の道に、挑み続けていくしかない。辛い。悲しい。でもやるんだよ。

 

そして・・・。


一度、ゼロから自分の手で編み出した文体は、そのまま自分の許(もと)から永遠に染みついて離れない。


表現とは、頭の中でただただ膨らませるだけでは成り立たず、ひとえに、手を動かすことによって成り立っていくものなんだよ。