ECHOESを聴きながら。
自分を保存するように、生きることができるだろうか。
決して、こちらや、こちらと似たような人たちが、保存されて、生きているような世の中ではない。
たとえ、自分ではなく、他者であろうと、自分と似た何かを否定されていたり、嘲笑われているような状況は、どうしようもなく、気力が消耗されていく。
人間、強い時ばかりではない。
誰かを、蹴落とすことで、己の安全を感知することができる。
そのような世の中で、同じようなことをしていることがないわけではない自分をも感知をしており、"たまに" ではあるけども、どうして、この先も生きていかなければならないのかが、訳が分からなくなってしまったりもする。
この悔しさは、一生、昇華をすることが叶わなかったのだろうか。
どうして、生まれ落ちてしまったのだろうか。
どうして、あの時、誰も、助けてくれなかったのだろうか。
様々なことを考えながら、体を休めていくしか方法がないのだろうか。
他人を殺すことができずに、自分を殺すことをもしないとして、さあ、他者と助け合いで生かされていくのだと考えたりもする。
気を遣って、気を遣われる。
ただし、どうしようもなく、疲れてしまうことだって、ある。
吐き出すしか、方法はないのだけれど、今回のこの感情のドツボは、どれくらいで去ってくれるんだろうか。
何だかんだ言いつつ、少しずつ、身体が動いてくれてはいる。
今晩はECHOESを聴こうと思った。
ECHOESでないと昇華させることのできないような、もしかすると、あまり理解をされることのないような、苦しみがある。
それをずっと忘れないで、否定をしないで生きている自分には、少なくとも誇りを持ってはいるところである。
………何でこんな風に毎回毎回、己の自我の核の部分まで抵触するほどに切なくなって、そうして、そういったそれまでの切なさとは異なるライフスタイルを得ることのできるような方向へと、舵を取ることのできるような、深刻な気づきを得たりしないとならんのだろう………。
他のライフスタイルは無いのだろうか…。
P.S.
辻仁成さんの『ピアニシモ』を初めて読んだ、高校2年生の夏休みから、俺の反抗期は幕を開けた・・・。
こんなにも、自分自身のことを言い当ててくれたような、深い心象風景を描いて下さった作品に、当時、初めて出会うこととなりました。
ピアニシモの内容を抜粋するととても長文となってしまいそうでもあるので、ECHOESの『ALONE』の歌詞の一部を以下に・・・。
最近 涙を流したことがない
きっと元栓を きつく締めすぎだね
蛇口を開いて 泣きたくなる時もあるけど
その蛇口さえ 錆びてしまって動いちゃくれない
誰か俺の名前を覚えているかい
あまり目立つことのない小さな俺のこと
厚い電話帳で君を探した
昔 一度だけ 話したこと覚えているかい
今度電話するって 約束したはずさ
いつかきっとなんて ごまかさないでほしい
こんな風に、解消をされることはないのかもしれないような過去の傷を、打ち明けるようなことを、もっと諦めずにやっていきたいなあと思うところは、ある・・・。
たとえ、どうしようもないことであっても・・・。