死について思うこと

個人的なパターンでしかないので、聞きたい人だけ聞いてくれればいい。

 

死にたいと思わなくなっている。

どうしてだろうと思いを巡らせる。たぶん、自分の中にあるクレーマーが消えたからだ(あるいは、限りなく存在が消滅したか、顔を出して来られても、こちらが、それを瞬時に察知して、そいつに乗っ取られないよう、深く鼻で空気を吸ったあと口で大きく吐くなどの対処をするようになったからだろう)。

 

それよりかは、死にたいとは思わなくなっているというだけで、実際には、死は、自分の中で、かなり存在感を増幅させていたりしている。

『死』とは、そんなに、悪くないものだと思う。排便や、睡眠、食事をすることが心地よいものであることと同じである。案外、心地よいだろうと将来出会う死ぬ瞬間について、考えている。どうしてそう思えたりしているのかと言えば、自分の中で、深く、黒く、死が、揺蕩(たゆた)っていることを覚えているからである。

 

その、黒く揺蕩う死の気配を感じるために、そこら辺へと感性の焦点を合わせてみれば、結構、心地よく感じるのである。日頃感じる多少の悩みなんて、今、自分の中にある、圧倒的な死の気配という闇にかき消されて、跡形もなく大したことではなくなってしまう。

 

死とは、悪いものではないと思う。これまで、どうして死ねなかったのかと言えば、それは、死が怖かったからである。まだ、死んでたまるかというか、20歳かそこらだし、生きるべきだろうという、かなりしっかりとした緊張があった気はしている。そうして(それゆえなのかはわからないが)自死することがとてもとても怖かった。でも、そもそも、死というのはそんなに悪いものではない。何が、悪いというのだろう? まさか、親が悲しむから、なんてことではあるまい。死は、特別なことですらない、果てるだけである。素晴らしいことではないか。自意識が完全に消えるんだ。あんなに邪魔で邪魔で仕様がなかった自意識が、完全に、消え去って灰か何かとなってどこかへ吹き飛ばされた挙句何かしらを培養させ得る物質へと相成れることがどれだけ最高であるか!

 

別に、それまでのように、積極的に死へと向かいたいだとか、いや、それから抗えるように頑張りたいだとか、そういう風にはなっていないよというだけで、ただただ単に、死は、今、自分の中に在る。

 

死から逆算して生活を営もうと、竹原ピストル氏の『ルート トゥ ルーツ』を聴きながら考える。死があって、それが、最優先である。そうして、場合分けなんてものは本来できないのであるが、果たして、これから先、死までどうやって生きていこうかと、想うわけである。ますます、社会の導きたい方向へ生活を沿わせていく意味がわからなくなってくる。社会に生きる人々全てを肯定したいけれど、社会に沿って生きることで皆幸せになろうと天や地に願うことは無駄である。社会は、腐らせるだけだ。結果、自分たちで、社会に順応しながら社会から離れた状態で、何とかしていこうと考えていくしか方法がない。