どうして優しくする必要があるのだろう・・・

とても伝えたいことがあって、その伝えたいことは、その伝えたい相手にとって、物凄く、不都合なことで、
あまりにも雑に伝えると、こちらがただ反撃され、柔らかい所を壊滅させられて終わるか、しかしその相手を潰したところでこちらが責任を負い切れないほどの不幸を相手に背負わせてしまう。

 

ずっとその狭間で、結構、苦労して文章を書いてきた。

 

その繊細すぎる重みに精神を潰されて、ある時、フッと、どうして、これ以上、生きていく必要があるのだろうかと、切実に疑問に思えてしまうことがあった。

 

ぼくは、何度か、壊滅させられたことがある。もちろん、壊滅させられたことがある人は、世の中にたくさんいることくらい、知っているつもりだ。
しかし、確かなこととしては、ぼくは、何度か、壊滅させられたことがある。

 

それゆえ、『ここまで伝えると、この人のことを、過去のぼくのように、壊滅させてしまう』という感覚が、何となく、わかってきたりもする。

 

ぼくは、壊滅させられた過去を、とても、理不尽な過去だったと考えているから、過去のぼくと同じような人に対しては、過去ぼくが苦しんだことと、同じような苦しみを、絶対に、味わってほしくはないーーー。
という思考は、あるにはあるのだけれども、しかし、しばしば、ぼくは、それに失敗してしまう。

 

まだまだ、ぼくは、ゾンビである。
死んでしまっていて、そうして、過去の自分と同じような人だったり、自分よりも弱い人を見つけると、その、ゾンビになった過去の恨みを、伝染させようと、時折、我慢ならなくなってしまったりもする。

 

それは、絶対に、良いことではないと思う。
そうして、そんな恨みを抱いてしまう自分が、決して、悪いわけではないから、こんな風に、とにもかくにも、文章へと転嫁させている。

 

そうして、生きている。

 

***

 

分からない人というのは、居る。

 

ある場合には、この、ぼくこそが、"何にも分かっていない、無神経な人" だから、そんなに、他者のことばかりは言えない。

 

しかし、たまにぼくは、ある種の "何にも分かっていない人たち" から、全否定されてしまうことがあったのは、確かだった。

 

ぼくは、自分を救わなくては殺されてしまうから、自己言及をし続けてきた。

 

ぼくには、余裕があるわけでなかった。そもそも、『他者に気を配る』という感覚が、さっぱり分からなかった。

 

でも、そんな風に、世間から見るとコミュニケーション不全者だとされてしまう有様だと、とにもかくにも、生きていけないはずだから、ぼくは、社会から殺されてしまわないように、なるべく、他者に対して優しくしようーーーコミュニケーション不全者ではなさそうな人たちの間において、『他者に気を配っている』とされているような立ち居振る舞いをできなければならないだろうと、試行錯誤をしてきた。

 

しかし、どうやって他者に優しくすることができるのかが分からなかったから、まずは、哀しいモノマネから入った。挙動不審で、思ってもないような褒め言葉ばっかり連発して、明るい事をひたすらに信じようともした。

 

本当は、優しくない自分自身だって、百も承知だった。

 

しかし、優しくなれなければ死んでしまうはずだと思っていたから、それゆえに、優しくならなければならなかったから、思ってもいないようなことを、たくさん、言わなければならないはずだと、取り組んできた。

 

人々は、そんな、思ってもいないことばかり言うぼくのことを迷惑がって、どんどんぼくから遠ざかっていった。

 

***

 

自分を良く見せようとする人を、その人の舞台裏の感情を少しも見ないままで、否定しようとする人がいる。

 

そうしようとする人の気持ちは、よく分かる。つまり、社会から、取り残されてしまった人なのだろうか。

 

見抜いた対価は、一生、支払わないつもりだろうか。

 

そんなところで佇んでいないで、そういう人たちの心情を汲んだ上での、"代案" を出してくれないと困る。

 

世界の足を、引っ張らないでくれ。

 

***

 

こういう文章を書いてしまうのは、自分のどこかで、限界が来ているからだろうか。

 

こういう文章こそ、自分を良く見せようとする心の、顕れだろうか。
いつまで、こんな風に、後ろめたい想いへと、晒されなければいけないのだろうかーーー。

 

***

 

ただただ、見抜いただけで、得意気になっているような人々を、壊滅させてしまいたい。

どうすれば、この連続から、突破口を見出すことができるのだろう。