自分を肯定する。

今日も無事、一日を終えました。

 

若干、風邪気味。鼻水が出ており、喉が荒れているため、胡椒や一味唐辛子が入っているスープを飲むと喉が刺激されて痛かったりしますが、それ以外はおおむね、元気です。今日は、アルバイトがお休みでした。水曜日以外は、全てアルバイトが入っております。少し、辛い (もっともっと、お布団の中で丸まって、引きこもって自分の内側の英気を養う時間を気の済むまで味わいたい) と感じるのですが、そういう生活を実現させるためにも、小説を頑張らなければなあと、思うわけです。

 

小説は、書いております。2016年の9月頃から、同じものを書き進めております。決して、サボっているわけではなく、しかし、どうも、本気で将来の作家としての生活の安泰だとか、そのため必ず必要となる作品のクオリティーの担保だとか、そもそも小説を書いている目的である

『自分の悩みを、同じように悩んでいる読んで下さっている人の悩みと共に、カタルシスさせた挙げ句、昇華する (つまり、もう、それまでのように悩まず、生活を、少し、創造へと向かわせる) 』

を達成させるためには、ぼくの悩みをそもそも解消せねばなるまいし、そうすると、普段の生活がそもそも修行みたいなこととなって、大変なわけです。早々、完成するというわけにもいかず………………。

 

ただ、小説をたとえ、書いていなかったとしても、ぼくは、普段の生活において、今と同じ悩みに、悩まされていただろうし、小説という捌け口を選び取ることがなかったら、一体、どうなっていただろうかと考えたりもします。たぶん、やりたくない仕事に真面目に取り組むあまり、職場で、暴れて周りに嗤われていただろうなあとも思います。韓氏意拳などのボディーワークとも、出逢うことは、なかったでしょう。気功や太極拳みたいな中国武術は、自分の問題点に気づくことがない状態のぼくにとっては恐らく、ただのうさん臭いものであって、まさか、自分がやると良いものだと夢にも思わなかっただろうなあ・・・・・それも、これも、文章を書くことを通して、己の悩みを吐き出すことで、奥深くの改善点へと、気づくことができたからだなあと思います。

 

ぼくの悩みは、自分で、自分のことを、認めることができなかったということです。

 

詳細を書くと、自分で自分を認めるためには、ぼく自身がその評価に届いている人間でないといけないわけですが、そうではなかったので、そうすると、自然と、肯定するわけにもいかなくなります。

また、やたらと自分で自分のことを肯定して、そうして、その肯定を、わざわざ周りへ声高に叫んで主張するような人たちのコミュニケーションに対して、辟易していたところもありました。

それゆえ、それらではないコミュニケーションを目指すとなると……………ぼくは、"自分に厳しく" と、極端に振り切ってしまいがちだったのかもしれませんでした。

 

しかし、そういうの、もう、いいじゃないですか。

 

自分に厳しくすることと、生活における一つ一つの要素を大切にすることと、同じようでちがう。大切にすることと、強制することはちがう。たぶん、ぼくは、それに (頭でもわかってなかったし) 体で違いをわきまえる機会を、持つことができないまま、20年ほど、日々を、過ごさざるを得なかったわけで、これも、しょうがなかったのでしょう。努力でどうこうなる話ではなく、むしろ、努力こそ、自分を強制してしまう理由です。自分を、甘やかしていきましょう。

 

この文章でぼくは、何を言いたかったのでしょうか。

たぶん、何も言いたいことがなくとも、明るい文章を、紡ぐことができる自分となったことを、伝えたかったのでしょう。

 

それまでのぼくは、全て、書く理由がありました。そうして、自分の書いた文章が、自分と同じような、どうにもならない状況に置かれている人々の解決策とならねばと思って、努力しつづけてきたように思います。ただ、それももう、面倒くさい話。あとは、小説に全てを込めようと思います。ここでは、なるべく、社交的な人格でもって、話を、つづけていきたい。

 

ぼくは、元気です。

 

決して、何もかもが幸福だとは言いがたい世の中における生活とはなっておりますが、木曜日も、バイトへ行きたいとは思えないわけですが、それでも、元気であるとは、伝えておこうと思っております。急に、何でしょうね。でも、こういう記事があっても、良いかもしれない。

 

この記事が、一つの、ターニングポイントとなることができたら・・・・・・。

 

ぼくが「元気です」と表現することで、周りの知っている人から喜ばれてしまうことが、それまでは、好きではありませんでした。なぜなら、ある人格が「元気です」と言ったところで、他のある種の苦しみを背負わされている人格としては、全く、元気ではなかったからで、そうして、その苦しみを知らない周りは、「そうか!  そうか!」と、やたらと、喜んでくるからです。勝手に、こちらを、幸せであると決めつける。このやりとりに、心底、辟易していました。ですから、とても苦しいと感じている人格に対して、ぼくは、アプローチしつづけるということとなったわけです。都合の良いところばかり見やがって、世の中は、本当は、ぼくが「元気です」と宣言すると喜ぶお前らを含めて、クソみたいな事象ばっかりなんだぞ、と、文章という名のハンマーで、頭を殴りたかったわけです。ただ、今は、それなりに力が付いたがゆえ、あえて、こう言おうかなあと思うわけです。

 

ぼくは、元気です。

 

本当は、こういう、承認を求めるかのような内容のことを、言いたかったわけではないような気がするんですけれども、溢れてきているのは本当なので、やっぱり、書いておこうと考えております。

 

ぼくは、元気です。

 

そうして、だんだん、ぼくのことに興味のない人たちへ、優しくできるような文章を、書いていきたいなあと、考えております。

誰かが「元気です」と宣言することで、『お前が元気だとか元気じゃないとか、どうだっていいよ』みたいに辟易するような、自分を肯定できないがゆえに、他者をも肯定することができない人間に対して、これからも、ぼくは、文章を通してアプローチしていきたいと考えております。

 

絶対、誰にも分かられないところは、自分だけで、肯定しつづければ良いんです。

他者を批判する暇があるのならば、自分で、自分を、抱きしめていれば良いんです。

 

 

詩 『世界の裏切り』

 

 

 

 

 

 

ねえ、友だちは少ないの?


自分の、身の内をさらけ出せる友だちは、どこにいるの?


もし、自分が嫌いだったら、身の内を分かち合える人のことをも、嫌いになっちゃうよね?


ねえ、自分が、嫌い?

 


君は世界に、裏切られただろうか?


どんな風に、裏切られただろうか?

 


それを聞いて、ぼくが君のことを噛み締め切れるかどうかは、わからないのだけれど。


一度、ぼくは、聞いてみたいと、思っているんだ。

 


話して聞かせられるようなものなのかはわからないのだけれど。


やっぱり、聞いてみたいと思うんだ。

 


到底、受け止め切れるとは思えないけれども、


それでも、やっぱり、聞いてみたい。

 

 

どこにも、友だちはいないかのように感じられてしまっているのだけれども、

 

ぼくは、きっと、大丈夫だと、思っている。

 

 

君の話を聞きたいな。

 

ぼくは黙って聞くことができるから。

 


 

木になろう。

 

だんだん、死にたいと思わなくなっていくように、感じている。

 

死んでしまいたいと、逃げ場が、どこにもないみたいに感じてしまうときもあって、そうして、誰かを励ましていこうと、猛烈に、己を鼓舞させてしまうことだって、あって、

 

結果は、どうあれ、そのとき、ぼくは、揺さぶられてしまっていたから、しょうがなかった。

 

だからもう、木にしがみついて生きていくしかないような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

空気を読む疲弊に絞られてしまって……………

いつも、自分の実力における120%周りに気を遣ってたからかなあ。

そうして、昨日の自分よりも優しくなろう、優しくなろうとしていたからなのだろうか、疲れてしまった。

何というか、必要な行為だったと思うし、もう優しくしないようにしようと思っているわけではないのだけれども。とにかく今は休もう。

 

上から目線とか、下から目線とか、そんなことは形式的な話で、優しいか否かについては、露ほども、関係がないような気がするのだけれども。

それでも、個人的に交流してみたかった人たちは、上から目線を嫌った。その人たちに合わせてみようと思った。何度も鬱に陥った。どうやら、今はようやく、その人たちの文脈で交流できてきているような気がしないでもないのだけれども………………

 

もう、疲れたよ………………。

 

どうしてこんなに自分から頑張ってみなければならなかったのだろう。まあ、そうしないと、社会から『気遣い』であると認められている "うわっつらKINDNESS" を習得できなかったし、しかし、案外、うわっつら〜がバカにならないくらい重要なことだとも、知ることができなかった。

 

どうしておれは、こんなにもスタートラインが周りと比べてとても後ろの方であって、そうして、こういうことをおれが言ったら、どうして、周りは「そうだね」とうなづくのだろうか。

どうしてその人たちは、自分の意見を語らない処世術を、語るそれより上であると当然のように判断しているのだろうか。疲れたよ…。

 

どうして、おれは、うわっつらKINDNESSが (気遣いの一つの種類であることは本当ではあるけれども) 他におけるたとえば下町のぶっきらぼうな一見毒にまみれて危険そうなコミュニケーション等々と比べても『至上』であると勘違いしている人たちの傷を請け負って、疲弊しなければならなかったのだろうか?

 

自分のことしか考えてこなかったわけではない。常に、どうして、自分が、クラスで孤立してしまうのかとか、そういうことばかり、気に病んで生きてきた。

だから、他者と、仲良くなっていきたかった。

それゆえ、優しくしたい心はあった。

でも、どうして………………。

どうして、"作法" をぼくに教えてくれなかったんだ…

 

ぼくが知りたかったのは、どうすれば、 "他者の心を気にすることができている人間である" と、周りから、正当に判断されるかどうかだった。

そのために必要となるはずの、対人関係における間合いの取り方や、姿勢の取り方が、知りたかった。

また、自分の心をしっかりと提示するため、おそらくそれまでは繋がっていなかった心と体を、少しずつ、繋いでいくことが、きっと、重要だった。

 

どうして、自分のことしか考えてないと、勘違いされなければ…………。

 

対話しなければ、他者のことは深く理解することができないとして、ぼくは、理解したくてしたくてしょうがなかった人たちと対話したかったのにも関わらず、対話をする段階にすら至ることができずに門前払いされ続けて、途方もなく傷ついてしまった期間があったことは確かだった。

 

愚痴くらい吐かせてよ…………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バイトを休んだ

「今日バイトを休みたいです。疲労が蓄積しておりまして、今のところ熱とか咳とかそういう症状は出ていないんですけれども、今日行ったら何だかもっとややこしいこととなってしまう予感が経験からしてわかるので、大事を取りたいです。よろしくお願いします」

とTELしたら受理してもらえた。

 

TELをしながら、自分の声が元気であることが自分でもわかった。

 

TELを切って、半端ではない後悔が押し寄せてきて、懺悔ツイートしようとTwitterを開いた。

書きながら、どことなく、ホッとする感じが体の奥から出てきた。

やっぱり、少なくとも身体としては、この判断が正しかったらしい。

心地良さが、少しずつ、勝っていく。

 

TELを取った社員さんの声からは、ぼくを非難する何かは感じられなかったのだけれども……………。

 

誰だって気軽に、アルバイトだけではなく、全ての人が、自分の都合で、シフトを休める世の中となっていけば良い。

 

 

一日中、布団から、出られなかった。

昼は、レタスをちぎってツナを入れ、サラダうどんにして食べた。夜は、レタスとネギとワカメと卵でスープを作って、うどんを入れて食べた。

 

あとは、ずっと、ヒーリングミュージックを聴いていた。外へ出かけてみようかとも考えたが、できないことは、わかっていた。明るい音楽を、聴くことができなかった。

 

午後6時、届いていた水野敬也さんの『運命の恋をかなえるスタンダール』を開いて、最初から、最後まで、3時間で読み終えた。

 

少し、小説を書いてみたが、30分も保たなかった。

 

 

午後10時。

布団で、眠り直していた。

 

 

 

 

 

試練

 

 

試練は、

 

 

 

乗り越えようとすれば、

 

 

 

 

 

 

 

乗り越えさせようとしてくる奴らの、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思うツボだから、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すり抜けようぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福論

 

 

 

誰のためでもない、自分のために、生きる。

誰のためでもない、自分のために、自分を幸せにする。

誰のためでもない、自分が幸せになるために、誰かを幸せにしようとする。

 

誰のためでもない、誰かを幸せにする努力をすることで、幸せにする努力ができた人が、それまでより、心地よい状態へとなっていくことは、確かのような気がする。

 

望まない幸福を望まれてしまったら、むしろ、ドン底へと墜ちてしまうのだけれども、人は、それぞれの幸福を追求するために、日々を生きているので、あなたは、あなただけの幸福を追求して、構わないのである。許可を貰う必要なんて、どこにもない。

 

むしろ、あなただけが知っている、たった1つだけの灯火を、燃やしつづけて、そうして、内を見つめつづけていく必要がある。

不幸を望むことが生きる悦びだと感ずることとなったことがある人たちだからこそ、その真実が、わかるものなのではないだろうか。

 

誰かが幸せになることが、決して、誰からも望まれるわけではない世の中において、そのようなことを口に出すのは、痛ましさを覚えてしまうかもしれないけれども、まずは、あなただけの幸福を探し出してほしいと思います。

 

ぼくの文章が、誰かの感じている幸福の、脇役か、添え物程度の存在にでもなることができたなら、ぼく自身はそれだけでも幸せです。

 

その人にしか分からない幸福があるということを、理解しなければ、誰かの幸福を望むことなど、できないのだろう。

 

幸福を追求しようとするならば、独りで、旅立たなければならないし、周りは黙って、出航を、見送ってやらなければならない。

 

その先に、必ず、理想の何かがあるのだと信じて、前へ、前へと、進んでいく。

遥か先にあるはずの幸福を求めて、寂しさを、乗り越えて、正しさを、祈りながら、人々はまた新たに、巣立っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえ、永続は、赦されていなかったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その "何か" は、巡り巡って、やってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆即興ストーリー 荒野のおおかみ

荒野のおおかみは走った、なぜ? 記憶を、取り戻すためだったのか? いや、荒野のおおかみは、走った、なぜ? それは、森へと急がないで、荒野へと走り出すため?

 

荒野のおおかみは毛づくろいをした。なかなか、本題へは入らなかった。

 

「一体、何をしているんだよ?」

「記憶を、取り戻そうと、しているのさ」

「記憶を、取り戻そうとする新たな試みに代表される行為が、そのような、あなたの毛をあなた自身の体で撫でまわすかのような、気味の悪い行為なのね? 知らなかったわ! 死ねばいいんだよお前なんて!」

 

荒野のおおかみは、野原を駆け巡っていった。

 

荒野のおおかみは、もうすぐ、ここが、雪原へと変化するであろうことを、察知してはいたがそれはそれとして彼はチベットを目指していたからどうしようもなかったのだった。沢山のヤクたちが、エベレスト山を登頂するための人々の荷物を運ぶ行為に加担していったから、荒野のおおかみには、既に、出る幕がなかったのだった。さっきから、何を言っているんだろう? これは、果たして、物語へと変わるのだろうか? 物語は記憶へと変化していって、荒野のおおかみは、ヘルマン=ヘッセへと、成り代わっていった。

 

「君は、もう少し、物事を深く考えなければならないよ」ヘッセは、親愛深い口調で、しかし、彼の瞳にはいつものように誰かを厳しくジャッジするかのような、荒野のおおかみのような眼があったから、荒野のおおかみは、へつらいしてしまった。

 

「君は、あまり、無理をしてはならない。しかしそれは、 ”無理をしてはならない” という行為を、実行するための忠言ではないことだけは、君は、しっかりと、知っておかなければならないから、君は、もう少し、三者三様の世界を思い知らなければならないし、君は、もう少し、瞑想へ励め。君は、もう少し、物事を知らなければならないし、それは、頭で考えるということとは全くもって似て非なる行為でしかなくって、ガラス玉演戯によって導き出された答えはただの形にはならないことでしかなかったから、君は、今までよりも本気で、今までよりも永く生きなければならないんだよ?」

 

ガラス玉演戯を開始して、荒野のおおかみは、荒れ地の魔女に出会ったが、ガラス玉演戯で撃退した。ガラス玉演戯とは、ただの名ばかりであって、少なくとも彼は(荒野のおおかみは)ガラス玉演戯が一体何であるかがさっぱり訳がわかっていなかったが、荒れ地の魔女は、ビートルズのオリジナルの『ノルウェイの森』をLPで持っていたから、ガラス玉演戯で撃退した。ガラス玉演戯を、そのような、物騒な方便として使ってはならない! ヘルマン=ヘッセの声が聞こえたが、無視をした。ガラス玉演戯によって人々は栄え、ガラス玉演戯によって撃退された。ガラス玉演戯によって人々は懲らしめられてしまったが、つい先ほど、ガラス玉演戯によって、人々が死んでしまったが生き返った『ぶっ生き返す』みたいな行為となってしまったのだった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

 

 

スランプだ。スランプと、なってしまった。スランプによって、おおかみは、スタンプを押されてしまった。荒野のおおかみはチベットへ到着してしまった。現地の人たちと揃いに揃って、ガラス玉演戯を開始した。ガラス玉演戯は大いに栄えて、盛り上がったから、現地の人たちはガラス玉演戯に蹂躙してしまったが代わりと言っては何なんだけど・・・・・・・・・・・・・・・・「蹂躙されたことで目覚めてしまって、何かがあったんだよ?」

 

 

 

 

 

疲れた。

 

 

 

 

 

 

どうにもならない状況

小説を書いたところで、他者が、救われることはないだろうし、自分ですら、救われることがない。

 

そうして、他者が救われるとか、自分が救われるとか、そのような、あやふやな現象が起こったところで、果たして、人間の将来が、自然が、どうなるのかはわからないし、ぼくが救われたところで、世界は、そんなに感じることはないだろう。

 

そうして、ただ、それだけ。

 

日々の作業で、パンパンになっている人がいて、その人が、たとえ、ぼくの小説を手に取って、一生、パンパンではなくなるわけではないし、救われたと思えた束の間、さらに、辛い状況へと、追い込まれてしまうことだって、あるはずである。

 

そうして、ただ、それだけである。

 

大したことは、できないし、どうにもならない状況は、いつまで経っても、どうにもならないように思えてしまう。

 

そうして、ただ、それだけ………………。

 

そんな毎日を、だんだん、愛おしく思えている。

 

 

中国とロシアに興味を抱いています。

今朝、家族で一緒に樺太へ行こうとしたら、僕だけ電車の時間に遅れて、あとで深刻に怒られてしまったーーーーーという、夢を見たのだけれども、目覚めたら凄まじいくらいに樺太へ行きたくなっていた。
これを職場の人に話したら、夢の内容は見た人の心とどこか関係があるらしいですよ、みたいに言われた 。

 

 個人的に、ヨーロッパやアメリカにはそんなに惹きつけられない代わりに、チベットや中国、シベリア方面へなぜか惹きつけられてしまう。

旅行のしやすさで言えば、たぶん、前者が良いはずだが、中国やロシアの人々とどうしてか、会話をしてみたい、文化へと触れたいと考えてしまう……何故?

 

たぶん、
「華やかではなく、恐らく、死ぬほど我慢をしている」人たちが住んでいるような傾向があるっぽい、地域だからだろうか。
これは、我が家系の『上からの指令に従って、我慢しながら、真面目に "やらなければならないこと" をこなそうとし、それが正義だと思っている傾向がある』文化圏から来ている気がする。

 

つまり、授業中や仕事中に雑談をしようとしないタイプである。
雑談をせずに真面目にこなそうとしたところで、組織にとって必ずしも良い方向へ繋がるとは限らないから哀しい。そもそも人間は根本的にはきっとMustが受け付けない体質だから、Mustを周囲へ押し付ける人はたとえ正しかろうと煙たがれるような気がしているんですけれども、あなたの周りではどうですか?

 

つまるところ、僕はあんまり、民主主義っぽくない国々へと、惹きつけられてしまうのかもしれない。
民主主義が嫌いだというわけではない。
しかし、僕個人としては、民主主義が苦手だったりする。
出来れば、やらなければならないことだけを、真面目に黙々とこなしていきたかった。

 

しかし、世の中は辛く険しい世界だった。
"自分の考えを、どうして、持たないの?" みたいに、言われてしまったりした。
ただただ、Mustをこなせば僕は満足だったのに「君って、何にもわかってないんだね」みたいに言われたことがある。
反抗できなければ、殺されてしまうシステムが、そこにはあった。

 

だから、個人的には、日本では名前を出しただけで時に眉をひそめられてしまう『共産主義』や『社会主義』に、知識がまだまるで無いから支持するとかしないとかは決められないけれども、かなり興味があったりする。
ポルポト政権のこととかを聞くと痛ましい想いに襲われるが・・・・・・・しかし、『共産主義・社会主義=暴力を振るおうとする人ばかり』ではないはずである。

 

 

再三になってしまうけれども、ぼくは、まだまだ知識不足だから、政治的な主義主張が確立しているわけではないから自分が民主主義者だとも社会主義者だとも共産主義者だとも言えないし、そもそも、主義主張を持とうとすること自体に、何となく、腑に落ちていないところがあったりするから、今のところは右派でも左派でもないし、そこら辺については、何もお答えすることができない。

 

しかし、折角だから、自分の体感や自分に合った考え方を追求して、自分に合ったスタイルで日々を生きていたいし、そのためならば、長い物に巻かれないで、日々を歩んでいきたい。

 

 

今の日本は、きっと、民主主義国家であるはずだから、民主主義国家にとって、少し、民主主義ではなさそうな主義主張を、唱えるようになってしまったら、何となく、煙たがられてしまう気がしてしまう。

 

しかし、人それぞれの意見を尊重することができるのが、民主主義の素晴らしさだと、僕は理解しているから、僕は、自分の中から出てきた、自分個人の意見の萌芽を、大切にして、生きる上での道しるべとしていきたい。