気弱なまま生き抜くためのテロリズム
そもそもブッダは、苦行を捨てた
苦→救いは、非常に実感が得やすい。
『苦の先にある、救いの光』を浴びることができる。
救いの光を浴びた人は、成長をすることができた実感を覚える。
人によっては、誰かに何かを教えようとするとき、昔自分の感じたものと、同じような実感を覚えてもらいたいと思う。
いたずらに苦を積んだところで、上手くいかなければ苦の経験を消化し切れず、言動が擦り切れるばかりだ。
その有り様を成長の証とするのは短絡的である。
必要以上に他者を追い込むのは、ただの想像力の放棄でしかないのだろう。
擦り切れてしまっているから、他者を想像する余裕すら消えている。そもそも、自分や他人を擦り切れさせる以外のコミュニケーションを知らない可能性もある。
いや、他者を想像した上での行動かもしれない。
『苦の先にある、救いの光』を浴びた経験を、他の人にも共有させてあげようとしたのかもしれない。
他者の立場になって、他者のためを想って――――――苦を積むことを、押しつけたのかもしれない。
他者を想像した上での行動が、毒になりうる。
この世に存在する、数限りない善意の数々が、どれもこれも、毒になりうる。
毒とは、何だろう。
毒を、この世から消し去ることはできるだろうか。
できないとして――――――せめて、、、、、、毒の濃度を下げうるものとして、考えられるものは何だろう。
思想とは、毒かもしれない。
思想が生まれる以前から、人間に在ったもの、それは、本能である。
本能とは、すなわち、体である。
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ぼくは、誰も傷つけたくなかった。
素朴に、生きていきかった。
少数でいいから好きな人たちと、好きなときに、好きなように好きなことを話し合って、笑って生きていきたかった。
自分のスタンスを損なわれると、怒りを覚えて、復讐したくなる。
では――――――ぼくのスタンスを突き通すことで、周りの異なるスタンスを損なうことになってしまった場合、どうすればいいのだろう。
周りの異なるスタンスの誰かをこちらへ復讐させないように、細心を注意を払いたい。
なるべく、不用意に、攻撃される危険を自ら招きたくない。
しかし、我慢をせず、鬱憤を溜めずに、伸びやかに過ごすことができないだろうか。
こういう良いことずくめのウルトラCを、完全に達成することはできないだろうか。
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自分の弱さに寄り添ったまま、この世のあらゆる制圧から解放されたい。
ぼくは、傷つきたくないし、傷つけたくもない。
『誰も傷つけたくない』と、強く想っている。
誰も傷つけずに、生きていきたかった・・・・・・・・・。
「傷つけられても、傷つける側に回るくらいなら、自分を損なうものから離れよう。」
「そして、守った余裕で、他のものを損なわない調和を目指そう。」
それがいい、きっと。
ぼくの書くことは、誰にも気づかれないよう細心の注意を払いつつ、社会に通じる理念を水面下で変えていくために、ぼくが勝手に行った、安全の保障されていない、ある種の実験の記録である。
これからも、ぼくは、言うこととやれることの一致を目指して、試行錯誤を続けていく。
良ければあなたも、自分の弱さを理解し、意識したまま生きていく方法をぼくに教えてください。