覚醒。

お金がない、という状態でいることに、疲れてきた。

 

また、お金がないからアルバイトを入れる日を増やさなければならない、という不文律に従うということにも、疲れてきた。

 

また、ぼくは社会不適合者なのだから、ぼくの思う、社会適合者へと、相成ろうと、自分の特性を全否定しながら、頑張っていこうとすることにも、もう、ようよう、飽きてきた。

 

社会不適合で、勝ち組でも、成功者でも何でもなく、特に、これといった秀でた何かがあるわけでもないという自分が、この、出版ド不況の時世において、小説を書くだの何だのと、何をいわんやとずっと自分で自分のことを思い続けてたのだけれども、もう、そういうことにもようよう飽きてきた。

 

今日、かもめブックスさんで岡崎京子さんの『PINK』を初めて(一話だけ)読んで、ああ、多くの人たちが、岡崎さんという作家のことを神聖視というか、伝説みたいに語りつぐその理由が、分かったような気がした。
帰り道、電車で何となく小沢健二さんを聴いていると、これまで、どうすれば楽しめるのかがはっきり言うとよくわからなかった(それゆえに、コンプレックスがあり、ぼくの中でも、精神的な、目の上のたんこぶのような存在だった)『Life』の楽曲群が、初めて、素直に、全曲、感性に入って染み入っていくような感じがしたのだった。

 

ぼくは、少しも、勝ち組とか、そういう風には現実社会ではなれなかったから、他者を、勝ち組(=幸福)へと、導くことができない、そんな文章を生み出す必要など、今の世界に対して、どこにも、存在しないような気分だったのだけれども。
でも、勝ち組(=幸福)には、ぼくは、(けっこう、本当に、沢山の試行錯誤を経てはきたのだけれども)なれなかったからこそ、社会に対して、全身全霊で問いかけられるような、そんな、かなり際どい(読む人にとって、試されているような気分となる)『問い』のようなものを、叩きつけられるのではないのだろうか?

 

そうして、ぼくはそもそも、妄想好きだったじゃないか?
それなら、もう、、、フィクションを、一から、バンバン、書いていこうよ。

 

・・・・・・と、岡崎京子さんの『PINK』の、第一話を読んで、その、軽いタッチのような絵と、それに反するかのようなテーマを思って、感じられたのだった。